『木の都』 織田作之助著

「大阪は木のない都だといわれているが、しかし私の幼児の記憶は不思議に木と結びついている。」

「試みに、千日前(せんにちまえ)界隈の見晴らしの利く建物の上から、はるか東の方を、北より順に高津(こうづ)の高台、生玉(いくたま)の高台、夕陽丘(ゆうひがおか)の高台と見て行けば、何百年の昔からの静けさをしんと底にたたえた鬱蒼たる緑の色が、煙と埃に濁った大気のなかになお失われずにそこにあることがうなずかれよう。」

「上町に育った私たちは船場(せんば)、島ノ内(しまのうち)、千日前界隈へ行くことを「下へ行く」といったけれども、しかし俗にいう下町に対する意味での上町ではなかった。」

「町の品格は古い伝統の高さに静まりかえっているのを貴(とうと)しとするのが当然で、事実またその趣きもうかがわれるけれども、しかし例えば高津表門筋や生玉の馬場先(ばばさき)や中寺町のガタロ横丁などという町は、元禄の昔より大阪町人の自由な下町の匂いがむんむん漂うていた。上町の私たちは下町の子として育ってきたのである。」

「「下へ行く」というのは、坂を西に降りて行くということなのである。数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂(あいぜんざか)、口縄坂・・・・と、坂の名を誌すだけでも私の想いはなつかいさにしびれるが、とりわけなつかしいのは口縄坂である。」

その後、この主人公は、口縄坂を上ったところの路地で、古本屋が名曲レコードを売買する店になっており、偶然にもその主人は、主人公が京都での学生時代の洋食屋の主人であった。主人公は何度かこの店を訪ねることによって家族構成と家の内実もわかる。姉と中学受験に失敗し新聞配達をしている男の子がいて、この男の子が、戦時下ゆえ名古屋の工場に徴用されそこの寄宿舎に入る。しかし、家が恋しく無断で帰ってきて、叱られまた帰っていった話を主人公は耳にする。その後主人公も足が遠のいていたが、訪ねてみると、「時局を鑑み廃業仕候」と貼り紙がある。隣の表札屋の主人に尋ねると、一家を上げては名古屋へ移ったという。男の子(新坊)の帰りたがる気持ちを考え、一緒に住めば新坊も我慢できるだろうと父親も姉も決心したのである。その話を聞いた帰り道、主人公は次のように締めくくる。

「口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思った。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直ってきたように思われた。風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。」

新坊の父親は「わが町」の<ターやん>とは違い、新坊のそばに移って行く。しかし主人公は、この戦争が、親子のそんなつながりをも、吹き飛ばしてしまう強い力であることを予想しているのである。戦争が無かったとしても、織田作さんは、この親子ような情愛とは無縁である自分を感じていた人に思える。

映画 『わが町』 で、<この小説は立身伝の国策ものとしてとらえられている。>と書いたが、原作は、一人の夢に憑りつかれた男の話で、それを、国の映画関係の人がこれは、国策映画となると踏んだのであろう。

織田作さんは<デカダンス>や<無頼派>と括られるが、簡単に括って欲しくないと思う。織田作さん自身に自嘲的な言動はあるが、作品の中には、騙されないでと声をかけたくなるほど、一生懸命働く人々が多く出てくる。織田作さんはそれらの人々を、一人こつこつ戦中も書いていたのである。そして登場人物に、あまり愚痴や心情はクダクダ言わせないのである。働く市井の人々を書く。それが、彼の小説家としてのステータスであった。その客観性が彼を孤独な人にした。

年譜によると、「清楚」と「木の都」の主題を合わせて、映画『還って来た男』が撮られ、その脚色を織田作さんが担当している。「木の都」も取り上げられたのを今知った。映画を見ていないのであるが、「木の都」は一つにしておいて欲しいかった。映画にしなくてよいから。しかし、川島雄三監督のデビュー作だから許すことにするが。織田作さんは、もう少し生き、映画に係っていたら、彼の孤独は違うものになっていたかもしれない。

織田作さんの坂として、小説と関係なく、かなり以前から歩きたかったのである。そしてこれらの坂を登ったり下りたりして、やっと自分の中の大阪を味わったのである。

 

 

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