『談志まつり 2014』(昼)

落語家・立川談志さんの11月21日の命日から3日間、『談志まつり 2014』が開催され、その23日の昼夜に行く。談志さんの落語に行くようになったきっかけが何だったのか覚えていない。小噺などが、ポンポンと続いて、半分くらいはついてゆけたのと、亡き落語家の名人たちの話しや、その他の色物のことなどが、とにかく凄い量が、談志さんの頭の中に入っていて、その芸のまま出すことが出来るということへの驚きであろうか。

その場になってみないと何が飛び出すか分からない。落語をされる時もあるが、されない時もある。ただ、様々の方の話にも触れるが基本的には、人の裏話には興味なくて、とにかく芸人さんのことであれば、その方の芸について話される。こちらもそのほうに興味があるので面白かった。

昼の部、最初の落語家さんが、私は医者だったのですが、落語家になりたくて落語家になり、今は両方を仕事にしていますと言われた。見たことがある。もしかして、ドキュメンタリーで談志さんの二つ目の昇進試験を受けていたあの方かな。次の落語家さんが出て、二つ目昇進試験の話をする。らく朝さんと志ら乃さん。あの時の前座さんが、こんな上手い噺家さんになったのだ。らく朝さんは、「真珠の誘惑」。志ら乃さんは「時そば」。

談志さんはお酒を飲みながらの二つ目昇進試験である。厳しい。次々要求していく。出来る噺をあげてみろ。じゃこの話のこの部分をやってみろ。踊ってみろ。知っている民謡を歌ってみろ。お弟子さんたちは、タジタジである。談志さんの想う事は、芸として必要なことであるが、それよりも、噺をやっているとそれに関連した違うことにも好奇心が働くはずだ。そしたら、それも手に入れろという事のようである。噺に使おうと使うまいと吸収して、落語だけでなく俺を楽しませてみろというのである。これが大変である。すべて、精通しているから、楽しませることなど出来るわけがない。噺にしたって言葉のイントネーションの違いを自らやって指摘する。だからこそ怒られても、注意されても、小さくなっても、着いてこられたのであろう。あの試験の結果がしっかり出ているのである。

志の輔さんは「バールのようなもの」。落語のようなものは落語ではないよ、とも言える。日本語の解釈は難解である。だから、イエス、ノーはっきりしない腹芸があるのか。

柳亭市馬さん、落語協会の会長さん。年末、掛け取りにくる人の好きな事をやってヨイショして帰してしまう。川柳とか芝居とか。ラストに松岡の旦那の談志さんが来る。談志さんの好きだった三橋美智也さんの替え歌を次々と唄う。談志さんも苦笑いして帰る。声がいい。

トーク  柳亭市馬さん、談四楼さん、志の輔さん、司会・談之助さん

「立川流誕生秘話~30年目の真実~」 真打の昇進試験のことから談志さんが、落語協会を出て立川流を作ったのであるが、その渦中の人が談四楼さんであった。その前に三遊亭園生さんの落語協会脱会があり、その辺のことが今回はっきりした。真打の話しのところで、やたらキウイさんの名前がでてきて、そういう噺家さんがいるのだと思って居たら夜の部に出てこられた。

談之助さんは、本も出していて演題は「立川流騒動記」であった。この話に関しては立川流落語家一番と自負されているようだ。

スタンダップコメディの松元ヒロさんは、政治にたいしても、庶民の言いたいことを笑いと力強さとアップテンポで聞かせてくれる。談志さんに、ネタを取られて談志さんのほうが自分の時よりもどかんと受けていたと話される。

騒動の張本人の談四楼さんは、「明烏」を手堅い語り口で。その当時は解らないが、この方を落とすなんて・・・。

志の輔さんは、立川流誕生によって、寄席経験のない落語家一号である。立川流誕生によって、寄席が無くても落語が劇場でもやれて、落語家も育つ見本を作ってしまったわけである。あれから30年、立川流は落語のすそ野を広げたわけである。

今では、寄席も少なくなり感覚的にしか解らないが、30年前は、席亭の力も強かったのである。寄席は毎日開いていますからね。

夜が「談志の遺言~俺を超えて行け~」。

 

 

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