四国こんぴら歌舞伎(1)

金丸座での歌舞伎復活は、テレビ番組で復元した金丸座へ吉右衛門さん、藤十郎さん、勘三郎(当時勘九郎)さんがトーク番組で訪ねてここで歌舞伎がしたいねという話が出てそれで実現したのです。そのテレビ番組を後で見て知りました。(昭和60年・NHK特集『再現!こんぴら大芝居』)

1985年(昭和60年)に第1回の上演が三日間ありその時は吉右衛門さんと藤十郎さんが出演され、次の年の第二回目は吉右衛門さん、藤十郎さん、勘九郎さんの三人が出演されています。

第20回目(2004年)に、金丸座で歌舞伎を観ることができました。お練りも見れました。切符のとり方など面倒なので、切符付き、琴平宿泊のフリーツアーセットで申し込んだと思います。友人と二人でお練りの道筋などを検討し、お練り見物に参加、宿泊所から金丸座の位置確認と所要時間などを確認したりと果敢に琴平の町を移動しました。次の日は芝居見物と金毘羅さん参りだったとおもいますが。

第20回記念公演で、さらに「二代目中村魁春襲名披露」というお目出たい舞台でした。さらなる金丸座修復で江戸時代の「かけすじ」という舞台での平行移動の宙乗りの仕掛けがみつかり「羽衣」ではその仕掛けを使ったのですが、残念ながら第一部の観劇でしたので見れませんでした。

演目の『再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)~桜にまよえる破戒清玄~』は、一回目での演目でもあり、「清玄清姫もの」の『遇曽我中村(さいかいそがのなかむら)』を吉右衛門さんが改編し20回目でさらに手を加えられたものです。吉右衛門さんの祖先は芝居茶屋を営みながら松貫四の名前で芝居を書かれていた人で、二代目もこの名前で作品を新しくしています。

清玄(せいげん)と桜姫の恋人の千葉之助清玄(きよはる)の同じ文字でありながら読み方の違うことから清水寺法師・清玄(吉右衛門)の悲劇がおこるのです。桜姫(魁春)と千葉之助清玄(梅玉)の逢引の手紙から同じ名前の清玄が罪をかぶります。当然破戒僧となるのです。そして、桜姫に恋焦がれてしまうということになり、これは叶うこともなく清玄は殺されてしまいます。清玄の霊は鎮まることがなく亡霊となってあらわれるのです。

小さな芝居小屋のほの暗さの華やかな舞台から、亡霊の場というおどろおどろしさを現出させようとの取り組みがわかりました。

平場での芝居見物は動きが制限され慣れない姿勢で窮屈だったような記憶もあります。今調べますと随分観やすい雰囲気になっているようで、今年も開催できないのは残念です。

それからです。切符さえとればなんとかなるのだということで、愛媛県の内子座などでの文楽などを鑑賞したのは。

いずれは出かけることも少なくなり、家での鑑賞になるのかなと思っていましたら、新型コロナのために早めに予行練習させられることになりました。これも気力のあるうちでないとできないということを痛感しています。

というわけで、初代、二代目吉右衛門のDVD鑑賞となりました。

二代目が主で二代目の得意とした21演目のダイジェスト版です。2時間強ですが、好い場面ばかりで、やはりお見事と休むことなく鑑賞してしまいました。戦さの悲劇性、虚しさなどが歌舞伎でありながら伝わってくるのです。現代にリンクする芸の深さです。

追記: 浪曲「石松金比羅代参」。次郎長が願かけて叶った仇討ちの刀を納めるために代参の石松の金比羅滞在模様は一節で終わり、大阪へと移動します。大阪見物を三日して八軒屋(家)から伏見までの30石船の船旅です。おなじみの「石松三十石船道中」となります。上り船で関東へ帰る旅人が乗り合わせての東海道の噂話という設定なわけです。

追記2: 落語で「三十石(さんじっこく)」(「三十石夢の通い路」)というのがあります。上方落語で六代目円生さんのテープを持っていてかつて聴いたのですがインパクトが弱かったのです。今はユーチューブで何人かの上方落語家さんの音声や映像で見れるので便利でありがたいです。落語は京から大阪への下り船で夜船です。

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追記3: 円生さんはまくらで『三十石』は橘家円喬が上方へ一年半くらい行っていた時に持ち帰り、それが円生さんの父五代目に、そして自分につながったと話されます。一度聴いただけではとらえ残しがありますね。

下げは、船で五十両盗んだ男を捕まえてみるとコンニャク屋の権兵衛で、「権兵衛コンニャク船頭の利」となり、「権兵衛コンニャクしんどが利」からきていて、京阪の古いことわざで「骨折り損のくたびれもうけ」の意だそうでそこまではやらずろくろ首でおわっています。米朝さんも権兵衛の下げはつかっていません。

円生さんは船の中の客に謎ときをさせ、沢山の船客を登場させます。客も江戸弁で上方との違いを表し、自分の語り口を生かしています。歌がありそれぞれの落語家さんの味わいのでる噺です。

追記4: 落語『三十石』にも出てくる京・伏見の船宿・寺田屋は坂本竜馬が襲われて難を逃れたのでも有名ですが復元されていて見学もできます。三十石船と十石船にも乗ることができ、十石船に乗りました。落語で出てくる物売りの舟(くらわんか舟)もありましたが、落語のようなにぎやかさではなく穏やかに商売をしていました。

追記5: 「第20回記念のこんぴら歌舞伎」がテレビで放映され録画していました。生で観ていたので録画は見ないでしまい込んでありました。今回見直し大きな誤りをしていました。 「かけすじ」という舞台での平行移動の宙乗りの仕掛け  とおもっていましたら、花道の上を飛ぶ宙乗りでした。映像を見てびっくりした次第です。

 

幕末の庶民の人気者・森の石松

思うのですが幕末の庶民の人気者と言えば、森の石松ではないでしょうか。講談や浪曲で圧倒的人気を得ました。

喧嘩早く、情にもろく、ちょっとぬけているところもあり、都鳥にだまし討ちにあって無念の最後というのも愛すべきキャラクターとしては条件がそろっています。

勘三郎さんの勘九郎時代のテレビドラマ『森の石松 すし食いねェ! ご存じ暴れん坊一代』を観ました。よく動き体全体で感情を表す森の石松です。

観ていたらシーボルトが出てきたのです。シーボルトが江戸へ行く途中で、それを見たとたんに石松は走り出します。江尻宿でしょう。仲間の松五郎の出べそを治療してもらおうとするのですが望みはかないませんでした。

そして次郎長親分の名代で四国の金毘羅へお礼参りに行くのです。そして金丸座で芝居見物です。上演演目は『先代萩』です。前の客’(鶴瓶)がうどんを音を立てて食べていて、石松は「うるさい。」と文句を言います。舞台は八汐が千松に短刀を突き刺しています。石松は芝居だということも忘れて「何やってんだよ。」と騒ぎ立てうどんの客と大喧嘩となります。

舞台の八汐、「何をざわざわさわぐことないわいな。」。勘三郎さんの八汐がいいんですよ。この台詞を聞けただけでもサプライズです。さらに舞台の役のうえでの台詞と、観客席の騒がしさ両方にかけた台詞になっているというのが落としどころ。

石松と八汐。同じ人とは思えません。

政岡( 小山三)が「ちょっと幕だよ、幕、幕・・・」。閉まった幕の前で千松(勘太郎)が「うるさいよ、おまえ。人がせっかく芝居しているのに。」と怒鳴ります。笑えます。と映像は切り替わり、三十石船を映しだし船上へと移ります。知れたことで「江戸っ子だってね。」「神田の生まれよ!」(志ん朝)となります。お二人さんの掛け合いがこれまた極上の美味しさ。

この後、都田吉兵衛によってだまし討ちにあうのですが、江尻宿を通り越した追分の近くに「都田吉兵衛の供養塔」があります。

清水の次郎長一家は石松の仇をここで討ちますが、吉兵衛の菩提を弔う人がほとんどいなかったので里人が哀れに思って供養塔をたてたとあります。

ドラマで浪曲もながれますが、初代広沢虎造とクレジットにありました。私の持っているCDは二代目広沢虎造なのですが。よくわかりません。

追記: 二代目広沢虎造さんの『石松と七五郎』『焔魔堂の欺し討ち』を再聴。名調子の響きにあらためて感服しました。そして、ドラマ『赤めだか』を鑑賞。本が出ていて評判なのは知っていましたが、なぜか読まずにいました。好評なのを納得しました。談春さんはもとより、立川一門(前座)の様子が破天荒で、談志さんの落語と弟子に対する心がこれまた響き、笑いと涙でした。

追記2: 『赤めだか』(立川談春・著)一気に読みました。涙が出るほど笑いました。ラストは緊迫しました。人の想いの踏み込めない深さと繊細さ。落語の噺の世界のような本でした。

追記3: 2006年(平成18年)5月30日、新橋演舞場で談志さんと志の輔さんが、2008年(平成20年)6月28日、歌舞伎座で談志さんと談春さんが落語会を開いています。時期的には談志師匠が闘病中で身体的につらいころと思われますが嬉しそうに見えました。大きくならない赤めだかが大きくなったのですから嬉しくないはずがありません。そして談春さんが、「志の輔兄さんもやらなかった歌舞伎座です。」と言われたので皆さんどっと笑いました。立川一門のライバル意識を皆さん楽しんでいました。

追記4: テレビとかの映像画像は著作権に触れることもあるようなので削除しました。風景はよいらしいのですが、よくわからずにやっていました。申し訳ありません。他もありましたら少しずつ変更していきます。迷惑をかけた方がおられましたら深くお詫びいたします。

初笑い・前進座『一万石の恋』

前進座の『一万石の恋 裏長屋騒動記 愛の仮名手本篇』を観たいと思っていましたがやっと浅草で観劇できました。今年の初芝居で初笑いとなりましたが、いつものことでちょっと余計な口をはさみますので悪しからず。

山田洋次監督と前進座のタッグは二回目です。前回は『裏長屋騒動記 落語「らくだ」「井戸の茶碗」より』でした。

今回の<恋の仮名手本篇>というのが気になります。一幕目から<仮名手本>というのが納得できました。そして一万石という弱小藩の藩主・赤井御門守の恋が裏長屋の騒動記となるわけです。今回は落語の『妾馬(めかうま)』を土台にしているということです。

近年は『八五郎出世』の演目で語られるます。それは最後まで語られないからです。落語を簡単に紹介します。裏長屋に住む孝行な娘・おつるが赤井御門守のお目にとまり男子誕生となります。おつるは赤子を兄に見せたいと対面を殿に願いききとどけられます。兄・八五郎は無事おつると赤子と会うことができます。長屋の生活しか知らない八五郎のお屋敷での破天荒な言動が可笑しさをさそいます。殿様にも気にいられ、士分にとりたてられるのです。

そのあとは、名前も改まった八五郎が殿の可愛がる馬に乗って使いに出かけることになりますが、馬術の知らない彼は急に駆け出した馬のたてがみにしがみつきます。屋敷の者にどちらへ行かれるのかと聞かれ、前にまわって馬に聞いてくれというのですが、ここは蛇足として省略されることが多いのです。

もう一つの聞き所は八五郎の妹・おつるに対する情愛です。母の言葉を伝えつつ幸せな様子のおつるに安心するのです。

今回の芝居ではこの落語設定を大きくひっくり返しました。お鶴には好きな人がいるのです。赤井御門守の恋、一万石の恋はどうなるのでしょうか。そして、裏長屋の人々の活躍はいかにとまあこんな具合に話はすすみます。

これはこれなりに笑いもあり結構なのですが、どうせなら、お鶴の名前をお軽にしてほしかったです。赤井御門守は芝居好きです。おかるの名前にビビビビーっと電流のくるのは間違いなしです。

それと『妾馬』が基本にあるなら、八五郎を途中で妹想いの兄にさらにひっくり返してほしかったです。母親と八五郎はぐうたらで長屋ではよく思われていない親子なのですが、そこが弱いのでどうせなら妹の本心がわかりそれじゃと妹のためにと八五郎が一肌脱ぐという変身ぶりにし、大家さんはじめ長屋の人々も力を貸すという盛り上がりにもっていってもよかったのでは。母親はそのままでいいです。

ひっくり返してまたひっくり返すというのもありではないでしょうか。それくらいやってもできる力量の役者さんたちなので、もったいなくおもえたのです。

<仮名手本>にはやはり前進座ならではの設定だと感心しました。ベンベンも笑えました。ただお小姓さん、襖をしめるときは中腰ではなく座ってからお願いしたいです。きちんとしているからこそさらにベンベンに笑いが増幅すると感じます。

それと長屋の皆さんの木遣りのときには、あちらこちらから調達した印半纏(しるしばんてん)などを着てはいかがでしょうか。酒屋、米屋、大工など。お祝いなので、裏長屋の人々の心の表し方も必要かと思った次第です。

音楽が素敵でした。始まりが江戸っ子の人情味をあらわすような明るさを押し出してくれるようで、途中の打楽器と尺八も場の雰囲気をかもし出してくれてよかったです。

前進座の90周年を寿ぎ、座員の皆さんの修練のほどを鑑賞しつつ笑いながら、ああじゃらこうじゃら突っ込みを入れつつ楽しませてもらった初芝居でした。

突っ込みをいれたからとて壊れるような芝居じゃないですから安心し、自分の好みの変更芝居に役者さんたちの動きを浮かべつつ書いています。

カーテンコールの後の写真タイム。今年も写りの悪いスマホとのお付き合いです。真ん中のご機嫌なかたが一万石志摩波藩の救い主です。そして、お殿様が後ろむきになるとお鶴ちゃんのお母さんがあらわれます。ウソかホントウか確かめたい方は機会がありましたら是非劇場にてお確かめください。

落語『八五郎出世』の生は志の輔さんで聞いています。

2021年『一万石の恋 ―裏長屋騒動記 愛の仮名手本篇』 (zenshinza.com)

話芸アラカルト(2)

噺を聴かせる話芸の落語は座ったままで様々のしぐさで噺の幅を広げていく。小三治さんの『初天神』は甘いミツたれをつけた団子のそのミツをなめるしぐさと凧揚げの様子が絶妙である。

初天神』はたわいない噺で熊さんが初天神に行こうとすると息子が帰って来ておいらも連れってとねだるのである。息子はあれを買ってこれを買ってとねだるので熊さんは連れて行きたくないのであるが、おかみさんに言われて連れて行くことになる。

熊さんはおかみさんが羽織を出せといったときにサッと出さないから息子につかまってしまったとぐちる。このぐちが道々でてくるが、その繰り返しの間が可笑しい。

案の定、息子は団子をねだるのである。ミツをたっぷりつけてもらうが、たっぷりで垂れるほどである。熊さんはこれじゃ着物もべたべたになると団子についたミツをなめるのである。ミツの垂れるさまを表現しつつのそのしぐさが実演そのものである。味もなくなるほどできれいになめてしまう。仕方がないのでミツの壺に二度づけである。

息子は今度は凧をねだり買ってもらう。おまえは、凧を持って後ろに下がっていいと言ったら凧を離せ。おとっつあんが揚げてやると言ったが最後、熊さん、凧揚げに夢中である。凧が揚がりそれを風に乗せていき小三治さんの糸あやつりの妙味がありありとわかるのである。青い空に舞う凧。おとっつあんが楽しんでいるのか小三治さんが楽しんでいるのか境がなくなり観客もその風景の中にいて凧をみている。つまらないのは息子である。「おとっつあんを連れてくるんじゃなかった。」

噺を聴いているだけでは伝わらない噺も多いのである。『長短』は気のなが~い人と短い人が登場し煙草を吸うのである。キセルで煙草を吸うしぐさが見えなければ楽しさは半減される。煙草を吸うしぐさで気の長短を現わしそれを観客は比較しつつ笑わせられる。

気のなが~い人は、特別に長く、短い人はこうやってこうやってこうだろうとあっというまに一服吸うか吸わないかでぽんと灰落としに火玉を落とす。小三治さんの『長短』は二回聴いている。一回目の時は、気のなが~い長さんが何ともマイペースで愛嬌を感じた。ところが二回目は、国会の答弁ののらりくらりの影響か、気の短い短七さんを応援している。出た!少し言ったほうが好いよ!みたいな感覚である。

ところが落ちは、短七さんはあまりにも動作がはやくて火玉を自分のたもとに入ったのを知らないのである。それを教えるのが長さんであるからたまらない。なかなか教えない。知った時の短七さんの怒りがラストにならない前から可笑しくて早々と笑ってしまった。思うに、たもとに入っているのが今は新型コロナウイルスかもしれないので複雑である。結果がわかるのが、長さんどころの長さではないのであるから。

落語も今の世の中の動きによって感じ方もちがうのであるということに気がついた。

もうひとつ長い時間気がつかないでいたことがあった。志ん朝さんの落語である。テレビ落語といっていいのかも。昭和43年(1968年)からスタートしたTBSの落語研究会の映像(DVD)である。落語研究会というのは伝統があり明治38年(1905年)からはじまり、5次目のTBSの落語研究会から放送用の収録も兼ねたのである。

それを観なおそうと観始めたら、登場人物の違いを手の重ね方とか身のこなしと顔の向き、目線の位置で確実に変えているのである。噺の上手い噺家さんと思っていたし実際に観ていたが、この狂いのない細やかな動きは何なのだと思ってしまった。そして次々と観ていったら全ての噺がそうであった。こんなに神経を使って完璧にしていたのかと感服してしまった。

大人と子供の上下の目線。その位置が大人と子供に変わるたびピタッと同じ位置の目線なのである。放送用でもあり細かいところも映し出されるのである。そのことを非常に意識されていたように思え、テレビ落語ということを感じたのである。

小三治さんは、志ん朝さんとの落語研究会での思い出を書かれている。落語研究会の楽屋はシーンとしていて真剣勝負の空気で、高座間際まで、真っ暗にした楽屋で闇の天井に向かって何か呟いたりして、志ん朝さんも一緒だったと。圓生師匠、正蔵師匠、小さん師匠なども無駄な口をたたく人はいなかったそうです。それだけ伝統ある会で次の人たちに伝える高座という意識も強かったと想像できる。

いいだけ笑わせる小三治さんですが、道しるべとなった言葉としてあげられてるのが、志ん朝さんから聞いた志ん生師匠の言葉「面白くやろうとしないこと。」と小さん師匠からの「無理に笑わそうとしちゃいけない。」の言葉ということである。笑わせられなくても、つまらなかったなとは思わないであろう。いまだ笑わせられなかった事がないのであるが。

話芸アラカルト(1)

映画『男はつらいよ』の寅さんである渥美清さんは言わずと知れた話芸の抜きんでた映画俳優であった。とらやのあの狭いお茶の間で旅の様子などを語るときはアップの寅さんの顔を眺めつつ、家族の一員になって聴き入ってしまう。話しの中に女性が登場すると、一家は現実に戻されて雰囲気が変わってしまう。満男くんは大人の思惑をよそに「またか」と小馬鹿にしたような顔をするのである。

50作目『男はつらいよ お帰り寅さん』は、この満男(吉岡秀隆)が寅さんを通して人間の一長一短ではいかない面倒な部分も見て来たことによって、面倒な状況にたいしても自然に対峙できる大人になっていたということが証明されるのである。

満男は初恋の泉(後藤久美子)と再会する。そして泉の母と父に関わることになる。離婚している泉の両親は老齢となり一筋縄ではいかない。特にお母さんは見ていても呆れてしまうほど勝手な行動にでる。ところが満男はこともなげにその母と泉の仲を取り持つのである。

満男には泉と母親のそれぞれの気持ちが何となくわかるのである。これは、寅さんの生き方を通して、寅さんと接する人々を通して自然に蓄積されていったものである。良いにつけ悪いにつけ寅さんから言葉では簡潔に表せない人間の面倒さを生活感覚として教え込まれていたのである。寅さんは意識しないで満男に一人前の大人となり親となれる力を与えていたのである。

その様々の寅さんが画面上に走馬灯のように出現する。

50作目の記念イベント『落語トークと寅次郎』に参加した。『男はつらいよ』に関連した落語(立川志らく、柳亭小痴楽)、浪曲(玉川太郎)と座談会トーク(司会・志らく/山田洋次監督、倍賞千恵子、柳家小三治)である。落語家の小三治さんがどんなことを発言されるのかが一番興味があった。

小三治さんが寅さんの映画で一番印象に残っているのは、暑い沖縄で照り付ける太陽を避けるため寅さんが、電柱の影に隠れようとする場面といわれた。山田監督はそれは渥美さんが考えてやったことですと。電柱の影は細くて隠れようもないのである。落語に登場する人物がやりそうな行動である。そして、小三治さんが倍賞さんの「下町の太陽」を一節歌われて、倍賞さんのアカペラの「下町の太陽」の歌唱のお土産つきとなった。

小三治さんのまくらでフランク永井さんの話しを聴いたことがある。オートバイの小三治、オーディオの小三治、まくらの小三治といわれ、落語の小三治とは言われませんと笑わせる。フランク永井さん自身も大切にされていたという「公園の手品師 」が好きでと、歌ってくださった。沁みます。

落語「粗忽長屋」は小三治さんの噺を聴いて、こんなに面白い噺にできるのだと再認識した噺である。それまで噺としてはばかばかしい面白さとは思っていたが、本当に面白いとは思ったことが無かった。いやもう、登場人物にこちらが成りきって楽しませてもらった。

浅草寺にお参りにきた男が人だかりの先に行き倒れの死体を見つける。そこに行き着くまで、こちらも男にご一緒する。行き倒れの死体の身元を探す世話役。男は死体は自分が住む長屋の熊だといい、本人を連れてくると言う。常識の通じない相手の登場に困ったものだとあきれる世話役。こちらも世話役目線になってあきれる。世話役の気持ちがよくわかる。噺の中にどっぷりである。

なんでそんなことが信じられるのであろうかは噺を聴かない人が思うことである。語っていることがそのまま本当に思えてくるから不思議である。そこがまた可笑しいのである。ばかばかしいはずなのに。入ったが最後、その世界から出ようと思わないのである。

男は長屋の住人の熊をつれて浅草寺にもどってくる。熊さん、お前の死体があるよと言われてついて来るのである。その過程は知っているが、「もう一人変な人があらわれたよ。」の世話役目線にすぐこちらは入り込んでいる。もう可笑しくてしかたがない。終わってしまえば可笑しい笑いの世界の中にいたと満足なのである。

これが腕のない落語家さんだと、この噺はこういう噺なのだと納得して笑うが、噺の世界の一歩こちら側にいて中へ入り込むことはないのである。

断捨離予定本が復活『東京人』

本棚の板が重みで歪曲して、ビスの部分がひび割れている。まずい。断捨離である。悪魔の手が伸びて生贄は、『東京人』(1999年8月号」)<特集 世紀末は落語で笑え!>。開いてしまったのが悪魔の運の尽き。面白くて、復活し、断捨離終了である。

立川談志さんと吉岡潮さんが、談志さんが「ゆめ寄席」に実際に選んだらどんな芸人さんが並ぶのかということで、選んでいく。人の並べ方だけでなく、この人のこれという指定がある。その中に、柳家紫朝さんの「両国」が入っている。この雑誌が出たとき、こちらは、紫朝さんは知らない。寄席で紫朝さんの都々逸などを聴いて気に入りCDを買った。ところが、響いてこない。骨折して時間を持て余し静かに聞いたところ微妙な声の響きと節つけに気がつく。紫朝さん選ばれたたのが嬉しい。かつて『文芸寄席』をやったことがあり<永六輔が講談、清川虹子と宮城千賀子の座談、手塚治虫先生が漫画を描き、俺と前田武彦が漫才、はかま満緒が手品、前座が円生師匠>との話しあり。止まらなくなる。

金原亭馬治さんが、馬生襲名予定の年で志ん朝さんも出てくる。

東野圭吾さんが、自分の作品に『快笑小説』『毒笑小説』という短編があって、「笑い」をテーマにしていて、「笑い」をテーマにすることは東野さんにとっては修業の一つであるとしている。そして『しかばね台分譲住宅』は志の輔さんが『しかばねの行方』と改題して創作落語にしていた。知りませんでした。

池内紀さん。どこかで目にしたお名前である。日本近代文学館の今年の夏の文学教室で、「森鴎外の「椋鳥通信」」の講演をされたドイツ文学者である。そのかたが「明治の大名人三遊亭円朝」を書いている。鏑木清方の高座での円朝の画像が有名であるが、清方さん、円朝さんについて旅をしているのである。明治28年、円朝さん56歳、清方さん17歳である。新し噺の取材旅行である。茶店があると疲れていなくても寄り、話しを聴くのだそうである。

「牡丹灯籠」にもふれ、下駄の音を「カラコロ」とでてくるのは、樋口一葉さんの「にごりえ」で、10年あとに円朝さんは下駄の音を「カランコロン」とする。

「「牡丹灯籠」では、因果物語と恋の怪奇がかわるがわる語られる。それぞれをA、Bとすると、ABABABといったぐあいに進んでいる。」

今日はAかなと思うとBの話しで、次はまたAの話しになるという続けかたである。聞き手の興味を裏切りつつ、その手の内にハマらせ、次を聴きたくさせるのである。

速記本として出し、手直しをしてまた発表して「原稿料」をとる。手直しは高座での客の反応を批評家として見立ててなおすのだそうで、清方さんの絵の円朝さんのじーっと客を見つめる眼が座っている。

「浅草十二階をつくった男」(稲葉紀久雄・文)浅草にあった<凌雲閣>の設計者バルトンさんの話しである。バルトンさん、衛生工学が専門で、日本や台湾の上下水道の整備をされたかたで、浅草っ子に気に入られ、高い塔を建てることに参加したのである。大阪に<凌雲閣>(のちの通天閣につながる)があり、いつしか<浅草十二階>と呼ばれるようになる。

最初は、浅草寺の五重塔の修理費用のため周囲に足場を組みお金を取って五重塔の上まで登らせたところ凄い人気となり、修理後、高いところを人々が好むことに眼をつけたのが始まりということである。<浅草十二階>は関東大震災で八階から折れてしまう。

しかし、バルトンさんは、日本各地に上下水道の設計をして衛生のために尽力されたことは残された。日本人女性と結婚し、日本で亡くなられている。明治の浅草の写真に写されている<浅草十二階>にはそんな歴史があったのである。

その他「ミステリー小説の東京・乃南アサ」(川本三郎・文)「川端康成と少女論」(小谷野敦・文)等、この一冊を選んだがゆえに断捨離の時間は、読書の時間になってしまった。

吉川潮さんが本格派声帯模写の丸山おさむさんを紹介していた。このかたの流行歌手の物真似は本格的で、時間的長さが必要のため、テレビでは無理であり、やはりな生で味わう人である。

東野圭吾さんの本は、旧東海道の帰りに古本屋で手に入った。友人は、値の下がるのを待っていた本が5冊見つかり重いリュックも何のそのである。

円朝さんの話から、歌舞伎座10月『文七元結』で感じたのは、円朝さんの眼は、角海老の女将として、和泉屋清兵衛の眼として見まわしている。清兵衛が文七を認めてはいるが、自信過剰の部分を見抜いている。それが、お金紛失と左官屋長兵衛との出会いによる経験で、独立させてもいい時期と思うのである。単に、めでたしの付け足しではなく、文七の成長をもきちんと描いていると思う。そして、お久の人間性。それらを見定めてのめでたしで、さらに、一皮むけた文七は、元結のアイデアをだすのである。円朝さんはきちんとその辺りを計算に入れていたように思えた。

一冊も断捨離できない原因は、本を開いたことである。しかし、16年前、一冊の本をこんなに愉しんではいない。それだけ少しは、振り幅が広がったのであろうか。

来年こそは、断捨離で本棚の歪みを正常にしよう。

 

 

 

 

志の輔らくご『牡丹灯籠』

恒例の下北沢・本多劇場での 志の輔らくご『牡丹灯籠』である。昨年は聴いていなくて、その前の2013年8月が、志の輔らくご『牡丹灯籠』との出会いである。

今回は、歌舞伎座での『牡丹灯籠』を観て次の日である。頭の中に歌舞伎の映像が鮮明に残っていての落語である。志の輔さんが、<歌舞伎座では玉三郎さん、香川照之さんの中車さん、海老蔵さんですからね。クオリティが高くて短いか、クオリティが低くて長いかですが。>といわれ、お客さんが笑われて<今のは笑い過ぎです>と。こちらは観て来たばかりなので、志の輔さん歌舞伎座へ行かれたのであろうかなどと良すぎる反応をしてしまった。

圓朝が15日かけて噺として30時間ぶんを口述筆記させたもので、それを、休憩を入れて2時間半でやってしまおうという大胆な試みである。その日は19時から始まって22時を10分ほどまわっていたが。

これを志の輔さんが始めたきっかけは、『牡丹灯籠』を読み始めたら知っている名前が中々出てこなくて、『牡丹灯籠』を何も知らなかったことに気が付いたからだそうである。私は、幽霊の話だくらいで、『牡丹灯籠』といえば文学座の杉村春子さんの知識はあっても観たことがなく、歌舞伎で初めて観たのである。そして、全貌は志の輔版『牡丹灯籠』で明らかになったのである。

新三郎をとり殺すお露の二度目の義理の母が、笹屋で伴蔵が入れ込んだお国で、お国はお露の父を情夫・源次郎とともに亡き者としようとするが、家来の考助に邪魔をされ二人で栗橋に逃げてきていたのである。考助はこの時、誤ってお露の父・平左衛門を殺してしまう。しかし、この平左衛門は、ひょんなことから考助の父を殺してしまっていた。孝助の母は離別されて再婚し、義理の娘がお国である。こうした人間関係をパネルを使い先ず説明してくれるわけである。

単なる解説といっても、そこは噺家・志の輔さん。興味がわくように、えっー、ほーう、まあ、わくわくさせるわけである。

お露と新三郎を合わせたのが医者の山本志丈で、ここから、噺は始まるのである。ここで、歌舞伎座の役者さんが頭の中に像を結ぶかというとそうではない。噺家は噺の中で人物像を作り上げていくわけで、しっかり、その人物像になっていく。お金を手にしたことによって伴蔵夫婦は、欲のほうが強くなってなっていき、しまいには邪魔者は消せとばかりに、伴蔵はお峰を殺してしまうのである。それも、金の海音如来を幸手の土手に埋めてあるからとお峰を誘いだすのである。どうやって手の入れた仏像であるかなど忘れている。金目のものとしてしか映っていないのである。

思うに、お露さんの乳母のお米さん幽霊も、百両持ってきたのが良くなかった。幽霊はお足がないはずなのに。お峰は、百両など持ってこれないと思って提案したのであるがそれが手に入ってしまう。伴蔵の悪への変化の流れが上手い。この伴蔵の関口屋の女中が変なことを口走り医者が呼ばれる。それが山本志丈である。このあたりの膨らませ方の語り口も面白い。

巡り巡っての展開を飽きさせず、それぞれの登場人物を語りわけ動かしていくのである。一方は破滅の道を、そして一方の考助は敵討ちの道をと進み目出度く成就されるのである。

と書きつつ、本当にこうだったかなと怪しくなっている。人相をみる有名な人も出て来て、新三郎の人相を観て死相を観た人はこの人で、とさらに細部を思い出しつつ次第に混乱してくる。

では、また来年お世話になることにする。パネルの名前を書いた磁石が持つ間は、続けられるそうであるから。それよりも強い味方は客の記憶力の低下かもしれない。

2013年のはこちらである。 志の輔さんの『牡丹燈籠』

日本近代文学館の夏の文学教室が始まり、聴きにいっているが、兎に角、作家というかたたちは、小説を書くために驚異的な時間を、資料を読むことに使われている。その刺激もあって、『牡丹灯籠』は、言文一致に先駆けるものとして、一度は目を通したほうがよさそうである。

 

 

立川談志さんの『芝浜』

談志さんは人情噺をやりたくないといわれ、それなのになぜ『芝浜』をやるのであろうかと、考えつつ言われたことがある。他のに比べれば私の『芝浜』は上手いよと、当然自画自賛も忘れない。

年末に有楽町のよみうりホールで、『芝浜』を語るのが定番となっていたようで、談志さんが亡くなる何年か前に、最初で最後の年忘れの『芝浜』を聴いた。

酒好きの魚屋が女房に諭され久しぶりに魚河岸に魚の仕入れに行く。ところが、おかみさんが時間を間違え、まだ誰もいない時間に河岸についてしまう。煙草を一服しながら、ひょいと紐を引っ張ると財布が出てくる。慌てて魚屋は家に帰り、財布の中身を調べてみると42両入っている。これで遊んで暮らせると、近所の者をよんでどんちゃん騒ぎである。ところが眼を醒ましてみると、おかみさんは、財布など見た事もない、夢を見ていたのだろうと素っ気ない。さあ大変である。お金もないのにどんちゃん騒ぎ。私が切り盛りするから、働いてちょうだいというので、お酒をぷっつりやめ仕事に精を出す。

三年後には、長屋の裏から表に出れるまでになる。大晦日、畳も新しくしておかみさんは財布をだし打ち明ける。大家さんに相談して、お前さんには夢だったことにして噓をついたのだと。怒る亭主。しかし、考えてみれば、財布をひろった事は世間にも知れ、つまらぬ生き方したであろうと、魚屋はおかみさんに頭を下げる。そして、すすめられたお酒を飲もうとして、「やめた、夢になるといけないから。」ときめる。

談志さんは、この女房が嫌いだと言う。どうしてかは言わない。話し方によっては、出来過ぎた女房になり過ぎるということなのか。名作というのは、様々な人がやっているので、それを超えるというのが難しい。この人のこういうところの『芝浜』はいいと言われなくては、また『芝浜』かと思われてしまう。

私が聴いたときは、畳が新しくなった大晦日、魚屋の家が新しい明るい家に代わっていた。そして、おかみさんが可愛いのである。あの談志さんの顔を思い出すと、信じられないが、噺にずーっと聴き入っていると、「おまえさん、あたしお酒呑みたくなった。おまえさんも呑もうよ。」「おれも呑んでいいのか。」「呑んじゃいなさい。べろべろに酔っちゃいなさいよ。」の誘い掛けが真に愛らしいのである。今まさに仲良く飲みかわすその寸前で、こちらの夫婦に入れ込んだ夢は壊されてしまうのである。

談志さんは、『芝浜』を語る前に一番いい『芝浜』はすでに三鷹でやってしまったと言われた。どんな『芝浜』なのか聴きたいとおもっていた。談志さんの一周忌に『映画 立川談志』が出来た。その中で、三鷹での『芝浜』が入っていた。おそらく、これが談志さんの言っていた『芝浜』と思う。

よみうりホールで聴いたのとは違う。あくせくしていない。ゆったりと構え、その動作も丁寧である。飲んべいで、その日暮らしの魚屋である。そこに突然お金が舞い込む。しかし、それは夢である。おかみさんに、後押しされ魚屋は働きはじめる。おかみさんはずーっと、亭主に噓を言ってきたことを気にかけていたようである。大家さんの考えとは言え、噓のうえに亭主を乗っけておくのが忍びないのである。すべてを打ち明けて、そこからの出発にしたいのである。<噓>にこだわるおかみさん。怒る魚屋。「ねえ、おまえさん別れないで。」と頼むおかみさん。魚屋はそんなことが言えた義理ではない。「えっ、許してくれるの、おまえさん。おまえさん、わたしお酒呑みたくなった。」

おかみさんが呑みたくなる気持ちがわかる。<噓>と<お金>の必要が無くなったのである。おかみさんにとって、恐いものはもう何もないのである。亭主さえいてくれれば。

おかみさんの手柄にはしていない。それでいながら、そのおかみさんへの魚屋の返答が、「夢になるといけないから。」なのである。

これが、好き勝手なことを言われている談志さんの『芝浜』である。悔しいが、ほろりっときて、見事に裏切ってくれた。談志さんは、落語は<一期一会>と言われていた。

 

 

『談志まつり 2014』 (夜) 

テーマは 「談志の遺言~俺を超えてゆけ~』 であるが、談志さんを超えれるかどうかは別として、立川流の落語家さんは常識を超えている方々もおられ、皆さん落語家としてやっていくための、突然ですがの訓練はされているので心配ご無用である。

落語家として二枚目が邪魔をする志の八さんが『初めてのお弔い』。らく里さんが基本に則った『安売り』。話題にされていたキウイさんは、本を出されて真打の許可を貰った落語家さんのようだ。その時の談志さんとのやり取りを話される。圓蔵さんに習われたという『反対車』。談笑さんは、『がまの油』。四方を鏡で囲い自分の姿の醜さにたら~り、たら~り、と油汗を出したのを煮詰めたがまの油売りの口上。スペイン語バージョンと酔っ払いバージョンも。談志さんの『がまの油』を初めて聴いたときは、大道売りの輪の中に立っている気分にさせられた。

トーク  山藤章二さん、吉川潮さん、高田文夫さん、ミッキーカーチスさん、(司会)立川談笑さん

ミッキーさんは日劇でロカビリーを歌われていたとき、あの日劇で落語をされたのだそうで、それを談志さんは聴きに行かれたらしい。想像できない面白い情景である。山藤章二さんの奥さんが古いレコードを持っていて、その中の講談の伯山のレコードを見つけこれが聴きたかったんだよと言われたとか。芝居の『鶴八鶴次郎』の中での名人会の中の出演者に伯山も入っており、時代的にその頃の伯山なのであろうかと、ふっと思った。談志さんの中には、そのレコードの伯山さんの名調子も収まったことであろう。落語協会を抜けられてからも、その前に予定されていた落語会に、師匠の小さんさんと一緒に出演されたときも、楽屋ではいつも通りであったそうで、周囲からでは計り知れない師弟関係だったと思われる。

これだけの方々が集まられたのであるから、もっと聴きたかったが残念ながら時間が短すぎた。

ぜん馬さんは、談志さんと同じ病気にかかられている。談志さんは自分の病気から起こる肉体的、精神的な影響を高座でも映像でも話され、生の自分をさらけ出された。ぜん馬さんは、事実のみ話され、落語『夢金』を粛々と語られた。

スタンダップコメディの松本ヒロさん。今度は原発のことなども加えつつの熱き弁舌である。

『談志まつり 2014』のトリは、志の輔さんの『新八五郎出世』でる。前に聴いたのと何が違うか。八五郎は殿様に何でも望みを叶えてやると言われ、母親の医療費のために、自分の仕事道具を質屋に入れたのでそれを出して欲しいと願う。その後で、妹・鶴の産んだ子供を見て、道具はどうでもいい、母親に一度でいいから孫を抱かせてやって欲しいと願い出る。殿様は八五郎の願いを叶える。

八五郎は酔いつつそこで不満を述べる。「さっきから見ていると、鶴がそばからコソコソと何か言うと、殿様は<許す>という。なんか気に食わない。」「許せ。鶴の一声である。」と締めくくる。この、なんかおかしい~!の八五郎の庶民感覚が浮き上がった。八五郎は酔っているし、欲もない。鶴が出世しても、それが鶴の倖せならそれでいいのである。そのことによって自分が出世するなどとは考えて居ない。妹は妹。兄は兄なのである。さら、八五郎の庶民感覚は、一人の人間によって左右される、為政者、殿様を、な~んか可笑しいと投げかけるのである。そこに、八五郎の生きてきた庶民感覚の確かさが出た。こう説明してしまうと詰まらなくなってしまうが、ふっと納得できない八五郎が酔いつつ感じる様がいいのである。

色々な談志さんに纏わる本や映像がでているが、八五郎の感覚を忘れずに、自分の談志さんをこれからも楽しむだけである。

菅原文太さんが亡くなられた。高倉健さん達に変わり、次の実録物に挑戦された俳優さんでもある。その後、名声に驕ることなく、一生活者として、一庶民として生きられたかたでもある。文太さんの庶民感覚は八五郎に通じる飾り気のない大地を踏まれた生き方であったと思う。一握りの土をそっと文太さんの上にかけさせてもらう。

合掌!

 

 

『談志まつり 2014』(昼)

落語家・立川談志さんの11月21日の命日から3日間、『談志まつり 2014』が開催され、その23日の昼夜に行く。談志さんの落語に行くようになったきっかけが何だったのか覚えていない。小噺などが、ポンポンと続いて、半分くらいはついてゆけたのと、亡き落語家の名人たちの話しや、その他の色物のことなどが、とにかく凄い量が、談志さんの頭の中に入っていて、その芸のまま出すことが出来るということへの驚きであろうか。

その場になってみないと何が飛び出すか分からない。落語をされる時もあるが、されない時もある。ただ、様々の方の話にも触れるが基本的には、人の裏話には興味なくて、とにかく芸人さんのことであれば、その方の芸について話される。こちらもそのほうに興味があるので面白かった。

昼の部、最初の落語家さんが、私は医者だったのですが、落語家になりたくて落語家になり、今は両方を仕事にしていますと言われた。見たことがある。もしかして、ドキュメンタリーで談志さんの二つ目の昇進試験を受けていたあの方かな。次の落語家さんが出て、二つ目昇進試験の話をする。らく朝さんと志ら乃さん。あの時の前座さんが、こんな上手い噺家さんになったのだ。らく朝さんは、「真珠の誘惑」。志ら乃さんは「時そば」。

談志さんはお酒を飲みながらの二つ目昇進試験である。厳しい。次々要求していく。出来る噺をあげてみろ。じゃこの話のこの部分をやってみろ。踊ってみろ。知っている民謡を歌ってみろ。お弟子さんたちは、タジタジである。談志さんの想う事は、芸として必要なことであるが、それよりも、噺をやっているとそれに関連した違うことにも好奇心が働くはずだ。そしたら、それも手に入れろという事のようである。噺に使おうと使うまいと吸収して、落語だけでなく俺を楽しませてみろというのである。これが大変である。すべて、精通しているから、楽しませることなど出来るわけがない。噺にしたって言葉のイントネーションの違いを自らやって指摘する。だからこそ怒られても、注意されても、小さくなっても、着いてこられたのであろう。あの試験の結果がしっかり出ているのである。

志の輔さんは「バールのようなもの」。落語のようなものは落語ではないよ、とも言える。日本語の解釈は難解である。だから、イエス、ノーはっきりしない腹芸があるのか。

柳亭市馬さん、落語協会の会長さん。年末、掛け取りにくる人の好きな事をやってヨイショして帰してしまう。川柳とか芝居とか。ラストに松岡の旦那の談志さんが来る。談志さんの好きだった三橋美智也さんの替え歌を次々と唄う。談志さんも苦笑いして帰る。声がいい。

トーク  柳亭市馬さん、談四楼さん、志の輔さん、司会・談之助さん

「立川流誕生秘話~30年目の真実~」 真打の昇進試験のことから談志さんが、落語協会を出て立川流を作ったのであるが、その渦中の人が談四楼さんであった。その前に三遊亭園生さんの落語協会脱会があり、その辺のことが今回はっきりした。真打の話しのところで、やたらキウイさんの名前がでてきて、そういう噺家さんがいるのだと思って居たら夜の部に出てこられた。

談之助さんは、本も出していて演題は「立川流騒動記」であった。この話に関しては立川流落語家一番と自負されているようだ。

スタンダップコメディの松元ヒロさんは、政治にたいしても、庶民の言いたいことを笑いと力強さとアップテンポで聞かせてくれる。談志さんに、ネタを取られて談志さんのほうが自分の時よりもどかんと受けていたと話される。

騒動の張本人の談四楼さんは、「明烏」を手堅い語り口で。その当時は解らないが、この方を落とすなんて・・・。

志の輔さんは、立川流誕生によって、寄席経験のない落語家一号である。立川流誕生によって、寄席が無くても落語が劇場でもやれて、落語家も育つ見本を作ってしまったわけである。あれから30年、立川流は落語のすそ野を広げたわけである。

今では、寄席も少なくなり感覚的にしか解らないが、30年前は、席亭の力も強かったのである。寄席は毎日開いていますからね。

夜が「談志の遺言~俺を超えて行け~」。