旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(2)

関宿は、残りの時間を全てあてようと思って居たので、ゆっくりと表示板などを見ながら見学を試みる。いつもは、荷物は駅のロッカーに預けるが、熊野の旅あたりから、少し鍛えなければとリュックを背負ったままで歩く。旅人と思ってくれたのであろうか、関宿では三人の男性に、関宿についてのありがたいご教授を承った。メモしていないので、かなりのことは忘却のかなたであるが、皆さん関宿を守るための意気込みと継続へのねばり、そして誇りを感じさせてもらった。

驚くほど、宿場町が残っている。関駅から北に向かって真っすぐ進むと東西に伸びる宿場町の中町の町並みにぶつかる。そこから、ゆっくりと西へ向かう。時代劇の町屋のセットと思ってしまうほど、古い町屋形式の家が並ぶ。間口が狭く奥が長い形である。<関まちなみ資料館>で町屋の中の様子と保存の歴史的資料をみる。三人目の方の話しを聞いた後でのほうが良かった内容であるが、その方の説明を聞き終わったのが、夕暮れでもう暗くなっていたのである。

自転車をおされた男性が、ある町屋の瓦屋根を横から見るように勧めてくれる。見上げると瓦屋根が直線ではなく、少し丸みをおびたカーブをしている。さらに「関の戸」という看板のある和菓子屋さんの前で、その看板に注目するように教えてくれる。「関の戸」の看板の字は金で金箔を張られていて眩しいほどである。その文字が江戸側からはかな文字で京都側からは漢字なのである。江戸からの旅人には、京都に向かいますよと知らせ、京都からの旅人には、江戸に向かいますよと知らせているわけで、漢字と仮名で江戸と京を表す感覚が楽しい。そして帰りには、無料で上に上がると町並みが見える場所も教えてくれた。<眺閑亭>である。

せっかくなので和菓子屋さんで「関の戸」の和菓子を購入する。歌舞伎の『関の扉』と関係があるのか尋ねると、三つの<関の戸>があるといわれていると。銘菓の<関の戸>、相撲取りの<関ノ戸>、歌舞伎の<関の扉>である。そして、六代目歌右衛門さんが歌舞伎座で『関の扉』に出られた時に描いて頂いたという桜の色紙が飾られていた。今月の歌舞伎座の『六歌仙姿彩』には、『関の扉』の宗貞は後の僧正遍照で、小野小町、大伴黒主と重なっている。ただ、僧正遍照だけが老けてしまうが。

この和菓子は、380年間作り続けられている。阿波の和算盆をまぶしてある小さな甘さひかえめの和菓子である。その和菓子の説明書きに関宿の繁栄の様子が書かれていた。

東海道五十三次の内、四十七番目の関宿は、大和街道と参宮街道(伊勢別街道)の三つの街道が交わる宿場で、参勤交代やお伊勢参りの人々で賑わい、一日の往来客は一万人を超えていました。

 

看板の文字は、新しくしたばかりで、外に晒されているので金文字もくすんできてしまうため定期的に直しているそうで、光り輝く時にぶつかったわけである。

次は、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」と歌われた旅籠玉屋の見学である。ここも、時代劇のセットにして人物を配置して想像してしまう楽しさである。驚いたのが、階段が急である。とてもではないが、「はい、はい」などといって駈け上がったり、下りたり出来る物ではない。江戸時代の人は小柄で足も小さかったので、出来たのであろうか。係りの方も今ではできませんよねと言われる。そして、藁ではなく、竹の火縄があった。時代小説に出て来たのである。藁よりも火持ちがよいそうで、竹の節から節まで薄く削ってそれを材料にして作るが、今はそれを作る人が一人しかいないとのことである。可笑しかったのは、旅籠でののみ除けの方法が書いてあり、その一つに、「からたちの実を一つ持って抱いて寝る事」とあった。効くのであろうか。「からたちの実」と「のみ」。

関宿については、もう少し滞在である。

 

 

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