旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(3)

<関宿旅籠玉屋歴史資料館>の隣が築120年の古民家のゲストハウスである。お酒屋さんがあるから、地酒もあるし、ここは、歩いてきて関宿に入り泊まって、次の朝草鞋を履くというのもいい。情報提供すれば、仲間が、いくつかのコースを考慮してくれるであろう。旧東海道をかなり飛び越して、先にこの辺りの歩きを提案することにする。

旅籠の会津屋さんが食事処になっていて、そこで食事をとる。お店の前が、国指定重要文化財の<地蔵院>で桜が美しかったが、東追分のほうが満開のようですとお店のかたが教えてくれる。お店の暖簾に「鈴鹿馬子唄」の一節が書かれていた。小万さんが主人公のようである。お店は地元の常連のかたが、飲みつつ歓談しており邪魔をするようで質問は止めた。

先ずは、<西追分>まで行ってもどろうと考えて進むと、観音院というお寺がある。そこで、2番目の案内人に声をかけられる。このお寺は今はほかのお寺の分院なのだそうである。昔は後方に見えている観音山にあり、こちらに移ってからは鐘楼が山にあるため、ご住職さん夫婦は大晦日には、除夜の鐘を鳴らす為に山に登り、年を越されたとか。今は無人で行事のある時、本院からお坊さんが来られるらしい。観音様が御本尊なのであろう。観音山といわれるだけに昔は栄えたお寺だったのであろう。観音山の下に<鈴鹿関>跡がある。

<鈴鹿関>が関宿の名前のもとのようである。この<鈴鹿関>は<不破関>、<愛発関>(その後<逢坂関>に変る)古代日本三関の一つである。<逢坂関>は歌にもでてくるのでどこかに印象づけられているが、鈴鹿といば<鈴鹿サーキット>である。

「関東」という呼び方は、この三関から東にある地域として「関東」となったのだそうで、あの和菓子屋さんの看板を考えられた人は優れた遊び心のあるかたである。こちらも、あのお店の前を通り後ろを振り向き、ニンマリしたいところであったが、残念ながら自力でのそこまでの奥行がなかった。時間的に<西追分>の休憩施設は閉じられていた。ここから、大和、伊賀街道へと続くのである。

ではとばかり、踵を返して東追分に向かう。途中<福蔵院>の門柱に「織田信孝卿菩提所」とある。織田信長の三男で、秀吉によって自害させられるが、その首をここに納め、信孝死後400年忌にお墓を建立したとある。もう一つ<小万の墓>と記念碑もあった。父の仇討を成し遂げた娘さんらしい。なるほど、それが「鈴鹿馬子唄」に残ったのである。信長さんの名前が出てくると、映画『忍びの者』『続・忍びの者』の信長役・城健三郎さんが浮かぶ。城健三郎さんは、若山富三郎さんの大映時代の芸名である。

<眺関亭>は5時までなので、急ぐ。関の家並みが眺められる場所である。<百六里庭>ともあり、江戸から約百六里の位置にある。さてさて、東追分に向かわなければ。気になることが一つあったが、その前で声をかけられ説明を受けたのである。関宿は、宿場町を残そうと始めて30年たつのだそうで、電信柱も町屋の後ろに移動させ、家を新しく直すにあたり、土台を残して復元させる場合の、柱のその継ぎ目なども教えてくれた。格子も千本格子とか、もっと細かい格子など。

この関には本陣が二つあり、参勤交代の上りと下りの二つの藩が泊っても大丈夫なだけの用意ができる宿であったこと。旅籠と木賃宿の違い。家康の御座所があり、家康は本陣ではなくそこに泊まり、家康の家よりも棟を高くしてはいけなかったこと。「関の山」の語源ともなった<関宿の山車>は、今は4基しかないが、山車全体を人が回すのではなく、山車の中間部分が回るようになっていて、京都から譲り受けたことは確かなのだが、京都のどこからとは記録にないそうである。山車が回るような仕掛けのあるものは初めて聴いた。

こちらがさらに知りたかったのは、家の前に、材木のような丸材を乗せた縮小したような引っ張る車があったのが何かである。伊勢神宮の式年遷宮が20年ごとにあり、そこで使われていた、四か所の鳥居の木が四か所に払下げになり、関宿は、宇治橋の鳥居の旧材をもらいうけるのだそうである。ということは、伊勢神宮の鳥居も木材は、40年間その役割を全うしているわけである。さらにもらいうけるところがあれば、さらに使われることとなる。これは聞いて嬉しかった。いくら伊勢神宮の神々のためとは云えども、選ばれた木が使われるわけであるが、贅沢だなあと思っていたのである。切られた以上は出来るだけ長く使われて欲しい。

そのもらい受けた旧材を東追分にある鳥居の建て替えに使うのである。そのため関宿の住民総出で<お木曳き>がおこなわれ、ミニチュアは、幼稚園生が曳くためのものだったのである。なるほど納得である。その行事が、今年、平成27年5月30日にある。5月23日から6月6日まで鳥居建て替え期間のようである。

東追分の鳥居は、伊勢への入口で「一の鳥居」と呼ばれ、広重の絵にも、この鳥居を潜って伊勢に向かう旅人が描かれていて、その道が階段で急なのである。実際にはどうかなのか、見たかったのである。辺りは、かなり暗くなってきている。熱心に教えて下さった方にお礼を言い東追分に向かう。これくらいの心意気でなければ、和をもって伝統を守っていくということは難しいであろう。

もしかすると江戸時代の関宿の夜のほうが、明るかったと思われるような暗さである。旅をすると、皆がいう。電気の消費をしているのがどこであるかがわかるわよね。駅以外はどこも暗いわよね。

これは寝静まった江戸の関宿と想像して歩く。直した家などは、車も格子戸の中にしまわれる様にしているところもある。どんどん歩いていく。ありました。東追分の「一の鳥居」。そこから伊勢街道は坂になっている。先はかなり深い闇である。

目的達成である。関宿は充分味わったが、仲間たちともう一度来たい場所である。亀山宿から歩いて関宿に入りたいものである。

 

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