『春琴抄』

NHKBSプレミアムの『妖しい文学館 こんなにエグくて大丈夫?“春琴抄”大文豪・谷崎潤一郎』で、作家の島田雅彦さんが、佐助が眼に縫い針を刺す箇所の文章に言及されていた。

試みに針を以て左の黒眼を突いてみた黒眼を狙って突き入れるのはむづかしいやうだけれども白眼の所は堅くて針が這入らないが黒眼は柔らかい二三度突くと巧い工合にづぶと二分程度這入ったと思ったら忽ち眼球が一面に白濁し視力が失せて行くのがわかった出血も発熱もなかった痛みも殆ど感じなかった此れは水晶体の組織を破ったので外傷性の白内障を起こしたものと察せられる

 

島田雅彦さんは、金目鯛の目で試されたそうで、谷崎さんも試したのではと言われていた。そのことで面白い文を見つけた。

佐藤春夫さんは『最近の谷崎潤一郎を論ず 「春琴抄」を中心として』という文章の中で『春琴抄』を作品として高く評価している。そして、徳田秋声さんのこの佐助の失明の部分が不用意で痛くない訳がないとの意見に対し、佐藤春夫さんは専門家の意見を聞き、医学的には間違っていないらしいとしている。

さらに佐藤春夫さんは、谷崎潤一郎さん本人に尋ねている。「谷崎は自信に充ちた顔つきで、僕は専門家をそれも二人まで意見を微して安心して書いているのだからね」と書いている。

これらは失明の描写の問題であるが、作品の中での佐助の失明について、佐藤春夫さんは失明以後を好むとし、かれの小説は佐助の失明によって始まるとし「春琴抄」は寧ろ「佐助抄」であろうとしている。

佐藤春夫さんはさらに谷崎潤一郎さんに意見を言う。「作中の春琴の小鳥道楽の部分は甚だ手薄で間に合せな素人くさいものに見えたと言ってみると、すぐ兜を脱いで、あれはあんなに詳しく書かないですませて置けばよかったのに、とあっけなく承認してしまった。」谷崎さんは佐藤さんの自分の作品に対する意見を素直に認めているところに、佐藤さんと谷崎さんの関係が垣間見えて面白い。

谷崎夫人だった千代子さんが谷崎さんと離婚して佐藤さんと結婚したのが昭和5年(1930年)、谷崎さんが丁未子(とみこ)さんと再婚したのが、昭和6年(1931年)、『春琴抄』が発表されたのが昭和8年(1933年)、谷崎さんが丁未子さんと離婚して後の松子夫人と同棲したのが昭和9年(1943年)である。

佐藤春夫さんの『最近の谷崎潤一郎を論ず 「春琴抄」を中心として』が書かれたのが昭和9年(1943年)であるから、佐藤さんと谷崎さんの関係は良好で、佐藤さんにが谷崎文学を好意的に論じるだけのゆとりがあり、谷崎さんも佐藤さんからの意見を素直に受け入れる創作上の環境が出来たということである。

松子さんに対する谷崎さんの手紙は『春琴抄』の佐助である。佐藤さんが『春琴抄』は「佐助抄」であると言われた意見に賛成である。失明することによって佐助は、自分の中に永遠の<春琴>を完成させる。肉体関係にありながら最後まで師と弟子という関係を保つ。それは、失明しても<春琴>は永遠であり、失明することによってさらに研ぎ澄まされた<春琴>から学んだ<音>は常に自分の手の中にあり、再現できるのである。

佐助は春琴が亡くなってから21年後の同じ日に亡くなっている。この21年間のために<春琴>は存在してたともいえる。<春琴>も自分が亡き後、<佐助>のなかで生きる自分の存在を、佐助が失明した時悟ったのであろう。佐助が失明したのを春琴が知った箇所が次の文である。

佐助、それはほんたうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思してゐた佐助は此の世に生まれてから後にも此の沈黙の数分間程楽しい時を生きたことがなかつた

 

その後に例えとして、失明した悪七兵衛景清のことを書き足している。

佐助は、春琴に滅私奉公するが、きちんと検校となるだけの技量も会得している。現実離れしているが、きちんと土台も出来ていて、滅私奉公も耽美に描かれ、この辺りは谷崎さんの狡猾に構築された構成力と物語性である。

佐藤さんは、『春琴抄』に対する泉鏡花さんの受け取り方も書かれている。

「鏡花先生はめくらの女の琴の話の出るのは朝顔日記以来閉口(何でも少年時代にでもへたな村芝居か何かでいやな印象を得てしまったらしいので)で、好きな作者のもので少しでもいやな気がするのは不本意で読了せぬと理由は先生らしい特別なもので」「好きな作者のものでいやな気がしたくないというのは尤も千万な心理と僕にもうなずける。」

『春琴抄』から、作家達の感想、谷崎作品の分析、谷崎さんとの直接の会話など、作家佐藤春夫さんならではの文であった。この佐藤さんの文があるから、折り畳まれた『春琴抄』を開いてみたが、不用意な開きかたでありながら、手を離せば何もせずとも元の『春琴抄』にもどる力がある作品なので、安心して遊ばせて貰った。

 

 

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