神保町シアターで<恋する女優 芦川いづみ>(8月29日~9月18日)で芦川いづみさんのデビュー映画で川島雄三監督作品『東京マダムと大阪夫人』を観ることが出来、<百花繚乱 昭和の映画女優たち>(9月19~10月23日)で川島雄三監督デビュー作品『還って来た男』を観ることができた。
『還って来た男』は、織田作之助さんの『清楚』『木の都』を脚色したもので、脚本も原作者の織田さんが担当している。神保町シアターで『川島雄三 乱調の美学』(磯田勉編)を手に入れる。三橋達也さん、桂小金治さん、高村倉太郎さん、今村昌平監督、西川克己監督のインタビューと、エッセイが載せられていて、それぞれの見方で面白い。
当時の大船撮影所は有力監督が次々応召され、小津安二郎監督も国策映画撮影のためシンガポールにいったままで、その手薄を補うため新人監督の登庸を決め、川島雄三さんも助監督から監督となる。西河克己監督は、学生時代に付き合いがあり、川島監督の1年後に松竹に入社する。この時の登庸試験について 「川島のようなのら犬監督には実力を認めて貰える機会はなかったかもしれない。」 としている。当時の川島監督は、西川監督からみると、もの知りなのら犬と写っていたようだが、川島監督は誰からの推挙もなく、純粋に試験の成績がトップで監督になったと記している。
『還って来た男』は、1944年の戦時下に作られたとは思えない長閑さがある。軍医が、戦地のマニラで虚弱な子供たちを診ていて、子供は健康に育たなければならないとの信念をもって日本に還ってくる。父親は財産を全て息子に渡す時期と考えていて、息子は自分の信念のためにその財産を使うこととする。ところが、この軍医は志は立派だが、そそっかしくあわてん坊なところがある。さらにところがで、このあわてん坊な純真なところが四人の女性に好感を持たれてしまうのである。
父親に財産と同時に嫁も貰えと言われ見合いをすすめられる。軍医は自分は見合いは一回しかせず、見合いをしたら必ずその人を妻にする主義でまだ見合いはしないというが、父親に丸め込まれ見合いをすることになる。その前に出会った女性二人は完全に軍医に好感を持っている。その後、亡くなった同級生の妹を心配して尋ね、りっぱに教師として自立しており安心する。その妹も軍医に好感をもつが、すでに外地に教師として赴任することを決めている。その同僚の教師が見合いの相手で、見合いの相手が、他の三人より魅力に欠ける人だったら観ているほうも複雑だなあと少しどうなるか心配であったが、見合いの相手がこれまた人間的にしっかりした人でハッピーエンドである。見合いする前に二人は出会ってしまったのである。好感を持った二人の女性とは縁がなかったということである。あわてん坊の軍医さん、モテすぎである。
その一人の女性が、『木の都』に出てきた、レコード店の娘さんである。娘さんの亡くなったお母さんが、軍医に慰問袋を送った人で軍医はそのお礼にレコード店を訪れたのである。弟が新聞配達をしていて、名古屋の工場に働きに行き寮生活となるが、家が恋しくて帰って来てしまうため、その父と娘は名古屋に引っ越すのである。
映画の出だしが、この新聞配達の少年が途中の坂の階段で転びケガをして、その手当をしてくれるのが、二人の女性教師同級生の妹と見合い相手である。見合い相手が田中絹代さんで軍医が佐野周二さんである。
軍医の父親が笠智衆さんで、小津安二郎監督の映画『父ありき』の時とは違う親子関係で、その辺も見どころで、小津監督の場合だと誰もいない坂道の階段を、小津監督の完璧な絵としてじーっと観させられそうであるが、川島監督はそこに遊ぶ子供たちを入れ動きを入れる。小津監督の坂道も家も眺めているだけで入ろうとは思わないが、川島監督の場合は、その坂道を歩きたくなるのである。そう思わせる映像なのである。
桂小金治さんが「やっぱり先生の映画はリズムだな。」「型破りたって軌道から外れてるわけじゃないんだよな。線路の上で花電車があったり食堂車があったりね、このよさなのよ。」と上手いことを言われている。小津監督の場合は鎌倉から東京の丸の内に通う規則正しい通勤電車である。
川島監督は中学の二年の時従兄に「オズヤス知ってるか、映画監督では何と云っても小津安だ」と言っていたのを今村昌平監督は従兄から聞いている。誰もが通過して自分の電車を走らせる。
この映画は時代からするとかなりずれている。このずれが今観ると凄いと思うし、ぐるうと回って行き着く終着点とその中心にいるレコード店の家族など、構図的な工夫があり、登場人物はそれぞれの自分の意志を持っている。押し付けられていた時代にこういう映画があったのだ。
映画『わが町』と同じようにマラソンがあり、織田作さんの好きな大阪の天王寺界隈があり、名古屋の軍需工場は織物工場の独特の三角屋根で、名古屋を印象づける。
フィルムも制限され、映画は67分である。天王寺の丘の下の寺に軍隊が駐屯していてたとえ長屋の路地といえども上から撮るというのは禁止だったようである。
「織田作之助とは、これを機会につきあいはじめ、僕は得をしました。反面、この破滅型作家とのつきあいで、こちらも多少、影響を受けてしまったのですがね。」(川島雄三)