旧東海道・舞坂宿・新居宿・白須賀宿(1)

江戸より30番目の舞坂宿から新居宿そして白須賀宿と続く。白須賀宿は、江戸時代前からの地震のあとを残している。熊本地震の前に歩いたのでその時は、遠い昔の地震のこととの印象があったが、熊本地震後は、日本の地下活動と地上の時間間隔が重なりあう時期ということを強く実感することとなった。

JR東海道線の舞坂駅から南に松並木があり旧東海道にでる。見付け、常夜灯、一里塚跡をすぎると「旧脇本陣の茗荷屋」が復元されて見学できる。

実際には、旧東海道歩き3日目の雨の日にJR高塚駅から舞坂宿を通り浜名湖の国道1号を歩きJR新居駅までとしたのである。国道1号を歩くため、地図をみる回数が少なくてすむからである。雨の日地図を見つつ歩くのは大変である。

旧脇本陣茗荷屋」に着いたときは、ポンチョに雨のしずくがたまっていた。脇本陣としては旧東海道でただひとつ残されていたもので、書院棟を解体、修理して復元したものである。舞坂の本陣二つは跡だけの標識である。係りの女性のかたが、浜名湖の今切(いまぎれ)のことを説明してくれた。

浜名湖は湖の南側が陸つながりだったのである。1499年(517年まえ)の大地震でその陸の部分が切れ、淡水湖だった浜名湖に海水が流れこむ。そして、江戸時代に整備され新居宿までは船で渡ることとなる。船がないので私たちは国道1号線をあるくわけである。浜名湖は風が強いが今日はおだやかだといわれる。なんとか傘をさせる状態なので助かる。

湖岸には当時の船着き場「北雁木跡(きたがんぎ)」の石碑がある。雁木というのは階段状になっている船着き場のことで、舞坂宿には3つの渡船場があり、「北雁木」は大名や幕府役人用、真ん中は「本雁木」とよばれ旅人用、南は荷物の積み下ろしに使ったとある。

赤い弁天橋をわたると道は国道1号線に合流し車道とは分れた歩道があるので雨の中でも歩きやすい。湖の南をみると今切口がみえる。浜名バイパスの浜名大橋がかかり切れたところの橋脚がしっかりと太くなっている。JR弁天島駅のまえを通過しそこからJR新居町駅までで終了し食事とする。

新居町駅から新居宿、そして白須賀宿は路線バスがなくなっているので二川宿まで一日で行けるように、晴れる2日目をあてた。

新居宿は船着き場に新居関所がある。今切関所とも呼ばれていたようである。徳川家康が天下統一をしたのが1600年である。新居に関所がつくられたのも1600年(416年まえ)で、その後地震や津波で移転をくりかえし、現在の位置に落ち着いたのは1708年(308年まえ)で、1854年(160年まえ)に大地震があり1855年から5年かけて建て替えられた関所が現在ものこっている建物である。解体修理され全国でただひとつのこっている関所である。渡船場跡も再建され、新居関所資料館もある。

さらに、近くには紀州藩の御用宿で一般客も利用した「紀伊國屋」も資料館として公開しており、見どころが多い。この建物は明治に火事で焼失し江戸後期の旅籠の様式をのこして建て替えられ昭和30年代に廃業する。「旅籠紀伊國屋」をでるとき係りのかたが、この建物の裏を少しいくともうひとつ古い建物があるので無料ですから時間があったらみていってくださいといわれる。

元芸者置屋「小松楼」(小松楼まちづくり交流館)。ここがまたおもしろかった。新居関所は、明治でお役目ごめんであり、そのあと小学校や役場として使われる。この南側にあたる地域は明治末から昭和初期まで歓楽街としてにぎわっていた。芸者置屋兼小料理屋をしをしていた「小松楼」が残って空き家だったのを、有志がはたらきかけ国の有形文化財に指定され公開にいたったのである。

ふすまの下張りにお客の勘定書きなどが貼られていて、この地域の人たちがそれをみて、遊び人だと聞いていたがやはりそうだったのかと、縁続きのひとの名を証拠としてみつけたりするそうである。ここのご主人の商売人としての顔は、芸者さんがお客の座敷にはいる北側の廊下にあった。そこは表とは違う少しささくれだったすき間のある廊下であった。客にみえるところとみえないところの差がはっきりしていた。こんなに差があるのをみるのは初めてである。

長唄の師匠をしていたご主人もいて、その娘さんが、長唄の本を切りとり、住まいの部屋のふすまにおもしろく張りつけてあった。老松の唄などもある。当時の芸者さんたちの写真もあった。戦後は数年下宿屋としてもつかわれたらしい。

江戸から明治、大正、昭和と時代の変化に対応してきた新居宿の歴史が想像できる。

旧東海道の話しから、「小松楼まちづくり交流館」の係りのかたが、本を引き出しからだして見せてくれる。静岡県の東海道のマップ「さすが静岡東海道」で、パソコンで検索していて見つけたマップである。静岡県の観光課でだしていてそれを頼まれてつくられたかたであった。本になっているとは知らず、マップをダウンロードして使わせてもらっていた。それも三島から白須賀まであるのを知らず、小夜の中山峠から使わせてもっらていたが残念ながら白須賀でお終いである。本は品切れだそうである。

時々歩かれて、直したい箇所があるといわれる。わたしたちも、箱根から三島への工事中でとぎれていた旧東海道が気になっていたが、あれは三島大橋の工事で三島大橋ができてなくなってしまったとのこと。近頃旅の広告で目にする観光名所である。そうかあの巨大なコンクリートの柱は三島大橋につづくためだったのである。もうあそこは国道を歩くしかないのである。

旧東海道を歩く人の数はしれているし、経済効果はうすいですからね。

「小松楼」を残すためにも尽力され、新居宿が充実しているのは、こうした人々の隠れた力があってこそである。今書きつつ、税金のがれをするお金持ちや、公費と私費の区別のない人たちのあさましさをフッーとふきとばす。

すすめてくれた「旅籠紀伊國屋」の係りのひとにもお礼を言って白須賀宿にむかう。

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