シネマ歌舞伎『野田版 研辰の討たれ』

日本近代文学館の夏の文学教室が開幕していて、4日目が終わった。昨年はこの様子を書いているが、今年はどうなるであろうか。テーマが「文学の明治ー時代に触れて」で、文豪のオンパレードであるからして、講義される方々も文豪の作品と向かい合われた痕跡があらわれ、こちらも神妙に聴かせてもらっている。

今日あたりから<文豪>さんに対し慣れが生じはじめ、聴く側の態度が軟化してきているが、書けるかどうかはまだわからない。

入ってくるものが多く、頭をめぐる血液の流れかたが少しつまり気味のような気がするので、かたまらないように適当にプッシュすることにする。ということで映画のこととなる。

野田秀樹さんが演出した歌舞伎『野田版 研辰(とぎたつ)の討たれ』の映画版である。これは、大きなスクリーンの映画で観た方が面白い部分がはっきりするのではと予想したら当たりであった。

研ぎ師の研辰は、剣術を習うため侍の守山辰次(勘三郎)を名乗り剣術道場に現れる。ところが、皆が赤穂浪士の討ち入りの話しで盛り上がっているところで、仇討をばかにしたためさんざんなめにあってしまう。研辰は痛めつけられた家老(三津五郎)に復讐すべく、あやしいカラクリをつくり、板を踏むとお堂から、言い表せられないような人形(亀蔵)が飛び出し、それを見た家老はショックのあまり死んでしまう。この事件が研辰が家老を闇討ちにしたという事になり、家老の二人の息子(染五郎、勘九郎)が仇討ちに向かうのである。

逃げる研辰、追い駆ける兄弟、曽我の兄弟の仇討ちとだぶらせて拍手喝采の世間。ところが、いつの間にか討たれる側と討つ側が入れ替わり、深く確かめもしない世間は、仇討ちという現象を喜んでいる。世の中の無責任さの怖さもちらちらする。

世間の関心が覚めたころ、研辰は兄弟に殺されてしまう。こういう場面は桜となるが、赤く染まった紅葉が一面をおおう中、紅葉の一葉が研辰の亡骸に落ちるのである。

映像で見て面白いのは、勘三郎さんの道場での一人芝居ともおもえる動きと台詞である。それが、ずーとカメラがとらえている。このなが丁場飽きさせない。舞台とは違いアップである。ここを予想していて面白いく、笑えるであろうと思っていたのである。そのとおりとなった。

舞台を実際にみたとき、どうしても全体が動くので、わさわさしていて笑いがあっても捉えどころがなく進んでしまう状態であったが、最初の一人芝居がしっかりとらえることができた。動きながらも台詞ははっきりしている。

そして、家老がカラクリを踏むところが、勘三郎さんと三津五郎さんの間のやりとりである。これは映像のとらえかたが、上手くとらえたとはいえない。三津五郎さんが踏みそうで踏まない、その可笑しさと、それに一喜一憂する勘三郎さんの間は映像のアップではとらえられない間なのである。これは、お二人を映していなければとらえられないのである。これは実際の舞台の空間の勝ちであり観客の視線になれない映像の限界である。

三津五郎さんのこの足の動きは、勘三郎さんの全身で現す芸に匹敵する可笑しさなのである。三津五郎さんの踏むか踏まないかの間に答える勘三郎さんの間は、このお二人の芸の間の絶妙さであり、個人的には一番の見どころであったことを思い出しあらためて感じいったのである。

こういうところにも、勘三郎さんと三津五郎さんの面白さの違いがある。

映画『やじきた道中 てれすけ』で、とにかく体いっぱいで表現する勘三郎さん。映画『母べえ』で、語りの上手さで存在感を表現する三津五郎さん。それぞれ独立していながら、並ぶとまたその独自性が大きく広がってくれる。こんな役者さんの組み合わせをみせてもらえたことは幸せであった。

舞台と映像では、相容れない部分もあるがそれを差し引きしても、舞台を楽しんだ気分させられる映画であった。

平成17年の舞台なので、現在活躍の役者さん達の今とを比較して観るのも楽しみ方のひとつである。

皆で、『ウエストサイド物語』のステップを踏む場面ははまり過ぎで、真面目な顔がよりうけてしまう。

脚本・演出・野田秀樹/ 出演・中村勘三郎、坂東三津五郎、中村福助、中村橋之助、中村扇雀、坂東彌十郎、市川染五郎、中村獅童、中村勘九郎、中村七之助、片岡亀蔵

 

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