シネマ歌舞伎『怪談 牡丹灯籠』

ひと言で表せば<いと可笑し>である。怪談物で、これだけ笑いの起こる芝居も珍しいであろう。

台風の過ぎ去ったあとで、8月20日~8月26日まで1日1回の上映であるためか東劇は驚いたことに満席の状態であった。一番の要因は、仁左衛門さんと玉三郎さんのコンビを観たいということでしょうが。2007年(平成19年)の舞台なので10年近く前の舞台ということになるが、数年前に観たような気分でそんな長い時間が経ったとは思えませんでした。

三津五郎さんが船頭の扮装から着流しとなり、その後ろ姿からチラッと色気がただよい、三津五郎さんのこんな一瞬の色気はじめてみました。培われた役者さんの身体の動きから垣間見た、あったかなかったかわからないような、短時間のことです。こんな大きな画面で見れるのですから、見つめていました。羽織りを着て前を向き圓朝になり、火鉢のうえの鉄瓶から湯呑茶碗にお湯か湯冷ましかを注いでゆっくりと呑み、さてと噺しはじめる。やはり語りが上手い。

仁左衛門さんの伴蔵は身体全体がつねに動いています。無駄に動いているわけではないのです。台詞とその人の置かれている状況からでてくる動きなので不自然ではないのですが、やはり歌舞伎役者さんの動きで、それでいてそのしどころがリアルにうつるんです。

伴蔵は幽霊と会っていて話しもしています。それを聴く女房・お峰の玉三郎さんは想像外のことで、聴いていてもピンときません。観客は伴蔵が幽霊を見たということは見ていますが、幽霊と話しをしたということは知りません。お峰が知らないことを観客は知っていますから、お峰が驚く様子に観客は優越感もふくむ笑いとなります。お峰はじーっと聞いて次への動きへの間、これがまた可笑しいのです。伴蔵が話すことによって自分の知った状況を整理できてきます。女房は次第に見ていない状況が自分のものになっていくというながれ、観客も伴蔵から知らない部分を知っていきます。次第にお峰と観客は同じ立場となります。そしてそこからのお二人のツーカーのやりとりができあがっていき、心理状態までこちらに伝わってきます。

お峰と同化していた感覚がまた、伴蔵とお峰の二人と観客の関係にもどり、客観的にそのやり取りの可笑しさを享受します。

一生懸命説明する伴蔵の動き、聴きつつじーっと止まっていた女房がやにわに言葉を発する。声をひそめたり、驚きの声となったり。いつの間にかお二人の芸にかどわかされていきます。かどわかされないと面白くありません。

そして、極め付きはお峰の思いつきの、お札をはがすことを承諾する条件に、百両幽霊に要求しようという案です。新三郎さんがいなくなると、伴蔵夫婦は生活がなりたたないのです。ですからそれを保証してもらおうという経済的根拠にもとずいた案で、伴蔵もそく納得です。いつの世も経済優先は強いです。幽霊はどこからもってきたのか百両もってきます。木の葉になりはしないかと心配しつつ、お峰は震える指先でチュウチュウタコカイナと数えつづけます。

さて、伴蔵とお峰のこのやり取りは伴蔵がお国と良い仲となり、そのことを知った女房が詰問する場面で使われます。使われるというと、演技してるという感覚がつよくなるが、演技しているのであるが、その境目を観客の中に残さないのです。演技していることが、今芝居の中で起こっていることを見ている観客の感性の邪魔をせず、可笑し味に変えてしまうのです。この可笑しさがたまりません。今度は伴蔵がわからない部分があります。お峰は馬子久蔵から伴蔵とお国の仲を聞き出していたのです。

このお峰の玉三郎さんと久蔵の三津五郎さんのやりとりも見ものです。

そのことを観客は判っています。ここでは、伴蔵とお峰とお峰の共犯者である観客との関係がなりたち、いつのまにか伴蔵とお峰のやり取りに見入ってしまうわけです。

映像が二人を大きく捉え、急所急所でそれぞれの表情がわかり、編集のよさも手伝っているとおもいます。そんなわけで<いと可笑し>たっぷりの映画鑑賞となりました。

幽霊のお米の吉之丞さんがこれまた幽霊らしい幽霊で可笑しいのです。幽霊のお露の七之助さんも、愛しい新三郎の愛之助さんに会えて最初はおとなしいお嬢さんですが、次第にお米幽霊に感化されて、幽霊らしい幽霊に昇格していくのも可笑しさを増してくれます。

お露の父(竹三郎)を殺すお国(吉弥)とその情夫・源次郎(錦之助)のもう一組の男女の関係がからみ、そのあたりがきちんと整理され演じられているので、流れも判りやすくなっていて、最後の幸手の土手での伴蔵のお峰殺しの場面へと繋がっていきます。

幽霊に魂を売って金をえて、新三郎を亡き者にする手助けをした伴蔵とお峰にとって、倖せを手に入れることはできなかったのです。とまあ言葉で書くと教条的になりますが、見ているとそんな形通りの解釈を吹っ飛ばし、そこへ行かせないだけの役者さんたちのやり取りの可笑しさに満足してしまいます。

団扇の使い方、着物の肩袖をたくし上げる仕種など、細かいところまで見させてもらい、大きい画面の楽しさを目いっぱいみつめさせてもらいました。錦之助さんは、信二朗から錦之助に襲名された年で、壱太郎さんはこのころは可愛さが売りだったのだなあなどという想いも忙しく回転し、映画料金分以上に刺激を貰ってしまいました。

 

もう一つ私の力では書き表せませんが、8月24日に国立劇場で開催された、

芸の真髄シリーズ第十回 能狂言の名人『幽玄の花』

能と狂言の最高峰の方々の催しで、判らないなりにも機会があれば、また触れてみたい世界でした。

 

シネマ歌舞伎『怪談 牡丹灯籠』」への1件のフィードバック

  1. NHKEテレにて「古典芸能への招待」で『幽玄の花』放映されます。
    夜9時~11時までです。

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