歌舞伎座 秀山祭九月歌舞伎 『吉野川』

『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の<山の段>ともいわれるのが『吉野川』です。

徳川時代の後期、明和8年(1771年)に人形浄瑠璃として上演されていて、この頃は古代研究も盛んで反幕府勢力が古代天皇制に傾倒していったということもあったようで、芝居も蘇我入鹿(そがのいるか)が皇位をねらって反乱を起こすという政治背景となっています。

権力者蘇我入鹿によって押し付けられた子供に対する受け入れがたい命令を、何とか守ってやりたい親でありながら、どうする事も出来ず、思いもしなかった結末となるのですが、筋は知っていながら、涙、涙のクライマックスでした。

桜で満開の吉野川をはさんで、右には紀伊国の大判事清澄の屋敷、左には大和国の太宰家の未亡人定高の屋敷があります。この両家には息子と娘がいて、愛し合っているのですが、両家は領地問題で昔から争っていて許されない仲なのです。

大判事の息子・久我之助(染五郎)と太宰の娘・雛鳥(ひなどり・菊之助)は吉野川をはさんでやっと言葉を交わしている時、親の帰ってきたことが告げられ、双方の開いた障子はまた閉ざされてしまいます。

両花道から、大判事(吉右衛門)と定高(玉三郎)が重い足取りで現れます。それぞれ二人は入鹿から難題を申し受けての帰りです。

久我之助は天皇に味方して入鹿打倒に加わったとの疑いから出頭を命じられ、雛鳥は入鹿の妻として入内することを命じられたのです。

二人は、親といえども子供は別のことでどうするのかと尋ね合います。ここが親の心情を隠しそれぞれ家の誉と言い合う聴きどころです。首尾が叶ったなら桜の一枝を吉野川に流す約束をします。

帰って子に正してみれば、それは親の本心と同じでした。久我之助は出頭を拒み自害、雛鳥も久我之助に操を立てて母に殺してくれと頼みます。親の望んでいたこととはいえ、その子供の決心にうたれ親は涙します。

娘に入内を勧める時の玉三郎さんの複雑な表情が、推理に推理をよび、本心はどちらなのかとこちらもその複雑な想いに混乱してきます。そして、雛鳥がやはり殺してくれというと、でかしたといいますがなんとも測りがたい表情です。そう望んでもそれは死なのですから。

お互いの親は相手の子供だけでも助けたいと桜の枝を流します。ところが、お互いの子が死を選んだと知って驚き動転します。大判事の吉右衛門さんは、それまでの自身の芯が折れたように、柱を背にくずおれてしまいます。

吉野川にひな祭りの道具と雛鳥の首の入った輿が嫁入りとしてながされ大判事のもとに届きます。大判事は、雛鳥を息絶え絶えの久我之助にみせ目出度く祝言とします。

定高側の領分が妹山で大判事側の領分を背山とし、その妹背の山に流るる吉野川の水盃で祝言とし、祝いのご馳走は桜花という美しさですが、残された親の心情の悲しさには美しすぎる背景です。

役者さんの大きさで、時代の嵐とそれに立ち向かいつつも失ってしまう命の愛おしさがいかんなく表現された舞台でした。

自分の意思を貫く染五郎さんと菊之助さんに悲哀と愛らしさがあり、腰元の梅枝さんに主人を想う一生懸命さがあり、道化役の腰元の萬太郎さんに自然な愛嬌があり可笑しさを良い具合にふりまいていました。

 

 

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