日本近代文学館 夏の文学教室(53回)(五)

前説

気になっていったことがあります。

日本近代文学館の夏の文学教室での講義について書きましたが、明治の作家の作品から少し違う観点で明治を見られているとして別枠とさせていただいた講師のかたが5人いまして、まだ書いていなかったのです。(8月11日からの続き)

自分の中で上手くまとまらずどうしたものかとぐだぐだしていたのですが、ドキュメント映画『エトワール』を見て、力を貰いまして年内に自分のまとめ方で書いてしまおうと思い立ちました。思い立っただけではなく自分流に飛びますので、言っておきますが読まれるかたは時間を無駄にしたことに後悔されるとおもいます。

本題

ロバートキャンベルさんは『都会の中に都会ありー「銀街小誌」から読む明治の銀座ー』として、小誌や写真の資料があって、明治から大正、昭和への銀座の変遷を紹介されました。

たとえば、岡本綺堂「銀座の朝」(明治34年)によると、「夏の日の朝まだきに、瓜の皮、竹の皮、巻烟草の吸殻さては紙屑などの狼藉たる踏みて」が時間がたつと「六時をすぎて七時となれば、(略)。狼藉たりし竹も皮も紙屑も何時の間にか掃き去られて、水うちたる煉瓦の赤きが上に、青海波を描きたる箒目の痕清く」となります。散乱したゴミが掃き清められ、その箒のあとが<青海波>なんです。清々しい銀座の商家前のようすです。

清々しさから、北村薫さんの『「半七捕物帳」と時代と読み』に飛びます。言わずと知れた『半七捕物帳』は岡本綺堂さんの作品です。江戸というのは、現代人とは相当違う環境のなかで生活していたわけで、闇とか、はだしの感覚とか、そういうことも愉しんで『半七捕物帳』を読んでほしいということだと思います。これは私の勝手な結論ですが、読んでいないので、読むとしたら個人的にそういうところを愉しみたいという想いなんですが。<青海波>ですからね。

北村薫さんと宮部みゆきさんの選んだ『半七捕物帳傑作選』もあるようですのでこの際読まなくてはです。

捕物帳といえば、会話も多いと思いますので、次は平田オリザさんの『変わりゆく日本語、変らない日本語』ですが、何が変わって何が変わらないのかメモからは推論できずです。

平田オリザさんは演劇の脚本を書いたり演出されたりしているかたですが、一作品も観ていないのです。平田さんなりの演劇論もあるようですがそれも把握していません。日本の演劇は近代からで、小説に比べると出足がおそいそうです。

面白かったのは、女性が管理職につくようになりましたが、男性の部下に対して何かやってほしい時、男性どうしなら命令口調でもいいでしょうが、そうはいかないということです。例えば、男性同士の上下関係なら「コピーとってくれ」でいいですが、女性の上司と男性の部下なら「コピーとってくれる」となるというようなことです。これからこうした関係に合う言葉が出来上がっていくのかもしれないということで、時代に合わせた言葉の変化ということでしょうか。

平田オリザさんの小説『幕が上がる』が映画になっているらしいのでこれは見たいです。見ます。

群馬に飛びまして、群馬在住の絲山秋子さんは『明治はとおくなかりけり』と群馬からの明治を話されました。榛名山の噴火で埋まってしまったものが、新幹線の工事で出てきたものがあり、明治の人は古代人を見ずに東武鉄道を見ていて、現代の人は東武鉄道がなくなっていて、明治の人を飛び越えて古代をみているという不思議な時間差について話されてもいました。

地方ではこれからも、電車路線の廃止で、どちらが新しいのか古いのかわからない風景となるところもあるでしょう。

群馬の代表的な文学者、山村暮鳥さん、萩原朔太郎さん、土屋文明さんでしょうが、群馬の文学館は離れていて使い勝手が悪いと言われていましたが、そうなんですよ。

群馬に関しては、自分が飛びました。前から前橋にある前橋文学館に行きたかったのです。そこに萩原朔太郎展示室があるのです。前橋は群馬の県庁所在地なんですが、高崎からJR両毛線に乗り換えなければならず、ちょっと時間的ロスのあるところで、街の中心が、JR前橋駅から離れていて、上毛電鉄中央前橋駅からの方が近く、この二つの駅がこれまた離れているのです。どうも、生糸関連の事業主の力がつよかったためのではないでしょうか。

前橋駅から乗ったバスのなかが木でできていてこれは素敵でした。バスを降りてから文学館への道が広瀬川沿いの遊歩道でこれも気持ちよかったです。文学館のなかも充実していて、朔太郎が作曲したマンドリンの曲も流れていました。

萩原朔太郎賞があって、受賞者に講演を聞いたことのある町田康さん、荒川洋治さん、伊藤比呂美さん、松浦寿輝さん、小池昌代さんのお名前がありました。

萩原朔太郎さんの孫である萩原朔美さんの「朔太郎・朔美写真展」も開催されていました。

私のほうは、朔太郎さんの娘で、朔美さんの母である、萩原葉子さんの『輪廻の暦』を数日前読み終わったところで、『蕁草(いらくさ)の家』『閉ざされた庭』を読んでからかなり時間が経っての三部作目です。

ここから土屋文明記念文学館にいくには残念ながら時間的ロスがありすぎました。

最後は、橋本治さんです。『明治の光』はお手上げです。橋本さんは読んでいてもそうですが、一つのことに沢山の知識が合体します。そして、ご自分が違うとおもわれると、初めから自分で調べるかたで、伊藤整の『日本文壇史』が面白いというので読んでみたら面白くないので、自分で調べ始めたという方なのです。

橋本さんの著書『失われた近代を求めて』シリーズを読むと光が見えてくるのかもしれません。

橋本さんの『桃尻語訳 枕草子』は「春って曙よ! だんだん白くなってく山の上の空が少しあかるくなって、紫っぽい雲が細くたなびいてんの!」というはじまりです。でもしっかり、まえがきは必読しなければいけません。「いきなり本文なんぞをめくられると多分目を回す方が一杯あるでありましょうから、こうして前説がついております。」

橋本さんの場合の前説は深い意味があります。そして、よくこんな話しことばで通し続けて書けるものだと恐れ入ってしまいます。恐れ入ったところでお終いです。

というわけで、私といたしましては、とにかく何とかしようとしていたことなので不出来は承知の助ですが、これで年越しができそうです。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です