『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から (6)

  • 作家・佐伯一麦さんは仙台在住で、東日本大震災にあわれている。そのあとなぜか月を眺め、月を友とする生活であったという。そして、敗戦の後、鎌倉で月を見ていた川端康成を思い出していた。活字では、『方丈記』と『源氏物語』の<須磨>が心に入ったそうである。映画『まあだだよ』での先生が東京大空襲で持って逃げるのが『方丈記』一冊である。震災のあと(半年後とおもうが)読書会があり、それは前もって決めていたのであるが川端康成の『雪国』である。震災を経験した読書会の人々は、主人公の島村に否定的であった。

 

  • 死、食べる、住まうとかの困難を経験した人々にとって、はっきりしない島村がなんともいらだたしかったようである。佐伯さんは、浮いた言葉を言わない島村にかえって矛盾した人間性をみたといわれ、筋のほかの関係のないところの風景描写の細部が上手いとおもったと。震災で佐伯さんは、底が無くなってしまったような感覚で、それが川端さんの底が無くなった魔界の世界のような『みづうみ』と重ねての話しとなった。『みづうみ』は三島由紀夫さんは否定的で、文芸評論家の中村光夫さんは高く評価したようである。不浄なものみにくいものの中に聖なるものがやどる。

 

  • 川端康成は徳田秋声を敬愛していて、川端は、『仮装人物』のただれが怖いと。『仮装人物』は踏み外しが激しいのだそうだ。『雪国』は温泉場で火山で『みづうみ』は爆発の後にできるもので、手書きのうちの思いつきの表意文字もみうけられるそうだ。みづうみ→水虫、天の虫であった『雪国』の駒子が我のある虫になる。蚕→蛾。美しいものがグロテスクになる。それを聞いて反対の矢印も←成り立つということにもなると思った。『みづうみ』の銀平は、みにくいとおもっている足の指をもっていることを意識しつつ、若い美しいものを求めて、その足で後をつけ追いかける。結論は書かれていないが、銀平は母のふるさとにある「みづうみ」に沈んで死ぬような気がする。そこに向かっていると思えて。そこにしか銀平の底はないのではないか。実際に底があるかどうかはわからない。

 

  • 『雪国』の読書会の最後に年輩の女性が、戦争中、親に怒られながら中里介山の『大菩薩峠』を読んでいて、その時間はその世界に没頭したと発言されたそうである。そういう時間空間をもてるのが文学の魅力であろう。反発も自由である。

 

  • 作家・池畑夏樹さんは、石牟礼道子さんについて話された。石牟礼さんといえば、『苦界浄土』で水俣病を世に知らしめるきっかけをつくられたかたでもあり、あまりにも崇高のイメージがあって近寄りがたいかたとのおもいがあったが、染色家の志村ふくみさんとの往復書簡などを読むと、公害の運動家的なイメージが、ただ自然と対話していたら自然も人も傷つけるのはいやであるとする想いが、言葉で表せない自然や人の叫びを文字に表してあげたら社会現象とつながっていたという印象が濃くなった。

 

  • 池畑さんは石牟礼さんの過去について話してくれた。おじいさんが、石工で道を造っていたのであるが、自分の造った道は崩れてはならないと、請け負うお金よりもお金をかけてしまうことになり、山を売り、そのうち家も差し押さえられるような人だったのだそうである。吉田道子さんが結婚されて苗字に石牟礼の「石」がついたのも縁であろうと。5歳の頃の様子には同年配の子供が出て来なくて、上手くコミュニケーションができなかったようである。次第に自我も出て来て代用教員となり短歌をつくるが自分を出し切れず、「サークル村」の文学運動に加わり、その時水俣病と出会うのである。

 

  • 『苦界浄土』は、患者さん達を書いているところは小説家で、医学的なところは官僚の人間ではない記述で、ノンフィクションではないからと大宅壮一賞をことわるのである。石牟礼道子さんは古代の人で、山に行ってたから、頭を下げて山の物を食べ海の物を食べる。チッソはプラスチックを作っていた。それに水銀を使った。それが有機物質としてながれ、プランクトンが食べ、魚が食べ人間が食べる。高度成長であったため、国も止めるわけにいかなかったのだと。

 

  • 歴史小説『春の城』は島原の乱を描き、そこでは3万人の人が殺された。キリスト教は異民族で、異民族であるから殺してあたりまえであった。地方にいるという文学者は、近代文学者ではめずらしい。石牟礼道子さんは、料理でも縫い物でもなんでもできて味にもうるさく、体が不自由になって人に作ってもらったものでも味のあわないものは食べなかったそうである。なんでも受け入れ耐える人ではなかったのである。何かほっとする。

 

  • 文芸評論家・安藤礼二さんは、折口信夫さんの『死者の書』についてであるが、『死者の書』は奈良の當麻寺の當麻曼荼羅の中将姫伝説とも関係している。そして當麻寺と二上山の大津皇子のお墓とを結ばせている。人形劇アニメ映画『死者の書』(川本喜多八監督)では大津皇子が暗い顔で現れた。ただわかりやすくまとまっていたと思うが時間がたってしまっているので記憶が薄い。折口信夫さんの原作の難解さはすんなりとは進んでくれない。

 

  • 貴族の娘の郎女(いらつめ)は、二上山に人の姿をみる。それは悲しそうで衣服をまとわず郎女に衣服を織らせるきっかけとなる。それが蓮の茎の糸で織った布である。當麻寺曼荼羅伝説では曼荼羅を織ったことになっている。折口さんは、郎女に絵をかかせたらそれが曼荼羅になったとしている。さらに、安藤礼二さんのお話は聞いている時はそうなのかと思うが、メモをみるとどうしてこうなるのかがわからない。聞き手は、『死者の書』を捉えているだろうとの前提で話されているのかもしれないが、『死者の書』は筋を追うだけではとらえきれない語り部、大津皇子と郎女の代を経ての関係などなどがでてくる。

 

  • 死者がよみがえり、それをよみがえらせたのが郎女で、郎女は死者の無念さとか想いということまではとらえていないと思う。ただあのくらい悲しい顔と衣をまとわぬ白い姿に被うものを作ってあげたいとの想いである。とまあそこまででギブアップである。それだけでは折口信夫さんも困ったものであると嘆かれるであろうが面目ないである。當麻寺を囲む風景は現代を離れた日本の原風景のようである。

 

  • 書き込みさせてもらった講師の方々の順番は、実際の講義登場の順番ではない。何となくそうなったのである。テーマにも意識しないで聴いて心動いたことに基づいた。今回出てきた小説はいままでより沢山読んだ。まだ、積ん読を平にしなければならないが、来年は前もって少しは読んでから聴講したいとおもったが、一年先のことである。

 

『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から (5)

  • 詩人・荒川洋治さんは、本にかかっているパラフィン紙をいいですねと言われた。今回の講義に出てきた作品を読まなくてはと文学全集をから探し出して積んで、図書館から探して積んでとやっているうちにそれだけで疲れてしまった。そして邪魔なのが、全集の茶色く焼けたパラフィン紙。ばりばりと破り捨てる。乾いた音と真新しい本がまぶしい。がさつで申し訳ない。荒川洋治さんは、黒島伝治の作品を紹介。小豆島で貧しいなかで育つ。プロレタリア作家で44歳でなくなり、短編60と長編1を書き残している。

 

  • 黒島伝治さんは1919年(大正8年)に召集され、1921年(大正10年)にシベリアへ派遣され1921年(大正11年)に病気のため日本にもどり、そのときのことを書いたのがシベリアものといわれる反戦小説である。大正デモクラシーのためか発禁にはならなかったのである。体験から考えると貧しいひとや、戦う意味がどこにあるのかわからないで死んで行く兵隊のことを書くのは自然のことであったとおもわれる。シベリア出兵というのがよくわからない。

 

  • 荒川洋治さんが紹介してくれた作品に『二銭銅貨』『』がある。『二銭銅貨』は、弟が兄の使っていたコマをみつけるのだが上手くまわらない。ヒモだけでも新しいのが欲しいとねだる。母は一尺ばかり短いヒモが二銭安くしてくれるというのでそれを買う。弟は他のより短いというのに気が付き、それを牛の番をしながら、柱にそのヒモをかけてのびるようにと両端をひぱったのである。ところがヒモの一方が手からはずれころんだところを牛につぶされて死んでしまうのである。『紋』は老夫婦が飼っている猫の名前で、よその鶏を食べたりと悪さをするのでしかたなく捨てにいくのであるが帰ってくるのである。そこで帰ってこられないように船主に頼んだ。船主が捨てて帰ろうとしたら紋は船に飛び乗ろうとしたのであるが船主の棒が当たってあっけなく死んでしまう。

 

  • シベリア出兵は日露戦争の後である。日露戦争は1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月までである。作家・木内昇さんは、『坂の上の雲』から司馬遼太郎さんが描いた近代を話された。明治維新などの主人公は欠点もあるが行動する人として力強く書き進めているが、明治30年以降からの作品が少ないとされる。日露戦争は、三人の人物からの三視点でみている。秋山兄弟は士族で明治になって仕事がなくなるが、名を上げたいと思っている。没落士族の多くがそうのぞんでいた。兄は陸軍、弟は海軍、正岡子規は市井のひとである。

 

  • 日本側とロシア側の近代化を司馬さんは冷静に見つめている。戦争をすることによって藩中心であった日本が国家という一つになったが、西洋に追いつけ追い越せとなって進んで行く。司馬さんは戦争体験があるので、のめり込んでいくことに懐疑的である。そこから第二次世界大戦に進み、日露戦争とは違う軍部、関東軍の暴走のカギがわからない、理由がわからないとしている。こちらはもっとわからないのでお手上げである。司馬さんは生前『坂の上の雲』の映像化を許さなかった。慎重であった。読むのがベストであろう。

 

  • 作家・林望さんは中島敦さん『山月記』の全文をプリントしてくれ、一部を朗読された。声がよく通り、文章が気持ちよく頭の中を通過していく。日本には二つの文脈があって、和文脈は源氏物語のように女性的で柔らかく、漢文脈は漢文の影響で男性的で、悲壮感、孤独感、高揚感があるという。漢文脈は声で味わうのがよいということであろう。中国の『人虎伝』をもとにしているのだそうだ。

 

  • 『山月記』は自分の才を信じている主人公・李徴は、境遇に満足できず発狂してしまい、いなくなってしまう。翌年、猿慘というものが勅命で出かけた先で藪に中から人の声がし、その声が李徴であった。そして姿は見ないで話をきいてくれという。姿が虎になって、そのうち心も虎になるであろうから今人である内に自分の想いを告げて置くという。李徴は切々訴え、帰りにはここを通るなと告げる。李徴と別れ後ろを振り返ると一匹の虎が茂みから躍り出た。「虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二聲三聲咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入って、再び其の姿を見なかった。」内田百閒さんの『豹』を思い出した。

 

  • 森鴎外さんの『寒山拾得』もプリントにのせてくれた。これは子どもたちにせがまれて書いた児童文学なのだそうであるが、ここにも僧が虎になったような話がでてくる。これは中島敦さんが、6歳の時にでている。中島家は近世以来、代々の儒学の家柄で父は国漢学者であった。幼い頃から漢文の読みに慣れ親しんでいたであろう。林望さんは、高校の教科書にも載っているので、分析しないで『山月記』を先ず耳から味わってほしいということのようである。

 

  • 中島敦さんの年譜から22歳の時、「浅草の踊り子を組織して台湾興行を企てしようとしたという」の箇所を見つけてしまった。中島敦さんも浅草へ行っていたのか。今、駒場の近代文学館では「教科書のなかの文学/教室のそとの文学Ⅱ ー中島敦「山月記」とその時代 」展(~8/25)をやっており、次は「浅草文芸・戻る場所」展(9/1~10/6)なのである。

 

『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から (4)

  • 日比谷図書文化館での『大正モダーンズ』展を最終日に観にいった。そのことはまた別のこととするが、図書館のほうに「ジェーン・スーさんと考える 親のこと、わたしのこれからのこと」という講演会の案内があり、そこに、三冊の本が並べられていた。その一冊に北杜夫・斎藤由香・共著の「パパは楽しい躁うつ病」があった。

 

  • 作家・磯崎憲一郎さんは、北杜夫さんの作品が好きで、芥川賞を受賞したとき北杜夫さんの本のことを書いたところ、娘さんの斎藤由香さんから手紙をもらい北杜夫さんの自宅で会うことになった。北杜夫さん、奥さん、斎藤由香さんとで話すことになったのであるが、北杜夫さんは話しの輪に入らないで始終黙っておられる。磯崎さんは、北さんの小説について話をふってみたら、黙っていた北杜夫さんが乗ってこられた。それが2011年2月で、2011年3月に対談を計画したが、東日本大震災で中止となり、2011年11月に再度決まるが、その前に亡くなられてしまう。斎藤由香さんは、父は忘れ去られた作家ですからと言われたがそんなことはない。全国紙の一面のコラムが北杜夫の死にふれていたのは井上ひさし以来で忘れ去られた作家ではないと。

 

  • 北杜夫さんは、子供のころは野っ原で昆虫と遊んでいるのが好きであった。父の斎藤茂吉が怖くて避けていた。斎藤茂吉は医者になれしか言わなかったのだそうである。動物学を勉強したかったが許されず東北大学の医学部に入り、ペンネーム・北杜夫は茂吉の子供であることを隠すためでもあった。北杜夫の自然描写は風通しがよく『谷間にて』は台湾に蝶を取りに行く話であるが、実際に台湾にいく予定が埴谷雄高に空想で書けと言われて中止している。風景描写を人の内面としては描かない。そこが当時の作品としては異質であったとされる。

 

  • 『楡家の人々』は40代になって書く予定だったが、亡くなる人が多く30代で書くこととなった。磯崎さんが、小説家になって『楡家の人々』を読むと、外向きの視線に驚かされたと。青山の病院がすごい建物となって表されていて表現の過剰さ、大げささをあげる。読み手に感情移入させない、近代文学の中では乾いていて(ドライとは違う)個人の内面から離れていて外に向かっているとされる。文学少年ではなかったことがそうした作風を生んだのであろうか。

 

  • 北杜夫さんの行かなかった時の台湾から時代的にもう少し前の台湾について、評論家・川本三郎さんが話された。佐藤春夫、林芙美子、日影丈吉、邱永漢、丸谷才一の台湾関係の作品名などを資料としてプリントしてくれた。台湾の人々が日本に親日的であるだけに、台湾という国の過去も知っておいたほうがいいのではないかということだと思う。

 

  • 日清戦争の勝利によって日本は台湾の統治国となる。それが第二次世界大戦のポツダム宣言まで50年間続くのである。他国に統治されるということは、その国の人々とっては様々なおもいがある。佐藤春夫さんは、台湾を舞台とした幻想的な作品『女誡扇綺譚(じゅかいせんきたん)』。林芙美子さんは、新聞社の主催で台湾にいき、総督の官邸の招きより、庶民の町を歩くことを好んでいる。日影丈吉さんは、戦時中の台湾にいた日本軍人を主人公にしたミステリ。邱永漢(きゅうえいかん)さんは、自伝の『濁水渓(だくすいけい)』、『2・28事件』。丸谷才一さんは日本在住の台湾人が「台湾共和国」という独立国家を夢見る『裏声で歌へ君が代』。時間のながれによる台湾に関係した作品である

 

  • さらに映画として紹介されたのが『悲情城市』(侯孝賢・ホウ・シャオシュン監督)である。第二次世界大戦が終わり、長男を中心とした一つの家族・林家が、外からの侵入により内から崩壊していくのである。この映画では外の力がよくわからないのである。一日一日を生活している者にとって政治がどう動いていてそれがどうやって襲ってくるのかなどわかりようもない。特に戦争のときには。観終ってからどういう事だったのかと台湾の日本統治をへてから中華民国からの国民党による2・28事件にいたるという歴史を知ると、林家が翻弄された経過がわかってくるのである。独立を望んでそれが違う形で抑えられてしまう外からの力である。4男の文青(トニー・レオン)がろうあ者なのであるが、どの言葉も正確にはわからないという象徴でもあるようで、さらに弱者が主張できないままに闇のなかに閉じ込められる恐怖が伝わる。

 

  • 内田百閒さんは怖がりであった。闇も怖がった。それを笑われると君たちは想像力がないから怖くないのだといった。作家で演出家でもある宮沢章夫さんは、悲劇と喜劇の横滑りのようなこととして内田百閒さんの『豹』を紹介した。檻のなかの豹をみてその豹が自分を狙っているとして恐怖をいだきある家に逃げ込み皆に話すが皆笑っていてとりあわない。そして豹がその中にいたという小説である。話しを聞きつつ、着ぐるみの豹がふっと浮かんで苦笑してしまった。そういう話しではないのであろうが。宮沢章夫さんは、横光利一さんの『機械』を一行づつ読むという企画で11年間連載したのだそうだ。読んでいないので想像できない。

 

  • 『機械』『日輪』の二字の題名にあこがれ、図書館に本を返しにいったら図書館がなかったという小説を思いつきその題名を考えた。こちらの頭にぱっと浮かんだ。『返却』。当たり! 別役実さんが面白いという話し。別役さんは喫茶店に一緒にいても話さない人で、ある時「ああ、今日はめずらしく話した。」といったのだそうである。いつもと変わらないのに。あるインタビューで別役さんのことをほめて終わったら別役さんが「いやぁ!」といって離れたところにいた。どうしてそこにいるの。聞いているほうは、何も起こっていないのに可笑しい。

 

  • チェーホフは『桜の園』を喜劇『桜の園』としていて悲劇とはしていないのだそうである。そして桜の園の敷地は千代田区の広さなのだと。ちょっと待って下さいな。そんな広さなら嘆くまえに何とかなったんじゃないのですか。持っていない者のひがみか。それを一緒に悲嘆している観客は喜劇。

 

『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から (3) 

  • 国家総動員法にしろ法律の原案を考えるのは各省庁の役人である。官僚は優秀な人がなるのであろうが、頭の悪い国民など簡単にだませるとおもっているのであろうか。改ざんなどどうやら平気のようである。それが曖昧になって映画『まあだだよ』ではないがチーチーパッパ、チーパッパである。優秀でおそらく大蔵省の官僚になったであろう三島由紀夫さんは大蔵省を辞めて作家となった。

 

  • 作家・島田雅彦さんは、三島由紀夫さんの『春の雪』などから三島さんの「文化防衛論」をはなされた。三島さんの描いた世界というものが、あまりにも一般大衆から遊離した世界で、こちらは三島さんの独自の世界という感覚である。島田雅彦さんは、三島さんはある意味のロマンス主義であるといわれる。『春の雪』は小説4部作『豊饒の海』の第1部で一番読みやすいというので読み始めたことがあるが途中で投げ出した。その後映画を観たが、読んでいないのにこれは、原作の感覚とは違うのではと勝手に思ってしまった。

 

  • 宮様と婚約した女性の愛を奪ってしまうのである。主人公にとっては愛もそこに破滅するような世界がなければならないのである。それも破滅しても、いや破滅させるに値する「みやび」がなければならないのである。三島さんにとって肉体は自分の世界に従属させるものであって、それも弱体ではだめなのである。鍛えた肉体でなければ。今回、『春の雪』読めそうな気がして購入したが、読み始めるのはもっと先になりそうで積んである。ナポレオンは文学青年で1パーセントの可能性にかけたのだそうで、三島の決起にもそれがあると島田さんはいわれた。こちらは、老人の三島さんが見たかった。1パーセントの可能性もないのであるが。

 

  • 映画『春の雪』は行定勲監督の作品であるが、行定勲監督の映画で面白いのは『パレード』である。浅草の花やしきの場面があって浅草の映画として観たのである。面白いというのはわかっているようでわかっていない、わかっているのにわからないことでつながっているのかもしれないという世界である。

 

  • 法律に関しては、作家・中島京子さんが、教えてくれた。憲法第24条の草案を考えたのが当時23歳だったベアテ・シロタ・ゴードンさんという女性であったということである。アメリカからあてがわれた憲法であるから改正しなくてはならないというが、それが現代の国民にとってふさわしいものであれば、誰が考えようといいではないかと思う。中島京子さんは伊藤整さんの『女性に関する十二章』と世界の#MeTooを考えての話しであった。セクハラ問題を #MeToo と表現するのは、アメリカの映画界での告発から知った。中島京子さんは、友人が財務省のセクハラ問題は知っているが#MeTooに関しては知らなかったのに驚いたという。

 

  • 伊藤整さんの『女性に関する十二章』(1954年)は60年以上も前のものなので今読むと古いが、憲法の24条に関しては、伊藤整さんにとっても改革であったらしい。9章で、自分だけ犠牲になればよいという情緒はよくないと書いているのだそうで、伊藤整さんは、演歌が好きであるが、情緒で行動するのは危険であるとしているらしい。家父長制を長く経験していた日本人男性がもし考えたらなら、憲法24条など考えられなかったであろう。結婚していようと、子供があろうとなかろうと、家族があろうとなかろうと幸福になってはいけないのであろうか。今の政府が家族、家族というとなぜか何をたくらんでいるのと勘ぐってしまう。クーラーのない部屋での書き込みで頭が沸騰してきているので、涼をとることにする。

 

  • 映画『まあだだよ』(黒澤明監督)は流される予告の映像でばかばかしくおもえて観ていなかった。内田百閒さんもそのため素通りであった。ミュージシャンで作家の町田康さんが、友人が町田康さんを、「まるで内田百閒みたいやな。」といわれ内田百閒を読んで「あっ!これは自分だ。」とおもったのだそうである。町田さんは、喫茶店で友人と向かい合わせに座り、テーブルのうえの、おしぼりとかコーヒーとか自分の前のもろもろを自分のこだわりできちんと並べるのだそうである。それを、前の友人の分までやってしまい「おまえ!何をしてるんや!まるで内田百閒みたいやな。」となったのである。

 

  • 町田さんは、お財布のなかの札もきちんと表で向きも同じなければいやで、コンビニのレジのお金も、銀行のお金も、強盗のようにピストルをつきつけて綺麗にならべかえて、終わったら解放してやりたいくらいなのだそうである。内田百閒さんのこだわりについて話された。そのこだわりは、よそからみると滑稽でもあるが、本人にとっては重要なことなのである。百閒さん(明治22年)は、岡山の造り酒屋で生まれ、わがままは全て聞いて貰える環境で育ったが家は没落し、その処分したお金で学校へ行き、明治44年に夏目漱石さんの弟子となっている。

 

  • お金はないが育ちのせいか、自分のしたいようにするのである。そのため借金もするが、収入支出が百閒さん独自の使い方であるため合わない。借金で免職になったりもしている。お金のない人は人にお金を借りるため頭を下げたりして修養できるが、お金のある人はそれがないから傲慢であるとし、生きているから借りるのであって死んだらちゃらであるから、死んだとき返しますという理屈が百閒さんのなかでは成りたったりもするのだそうである。死んで返しますではないのでお間違いのないように。

 

  • 映画『まあだだよ』は、百閒さんを慕う生徒が開いた『摩阿陀会(まあだかい)』で、かくれんぼ(亡くなられる)にかけて、生徒が「もういいかい」「まあだだよ」「まあだかい」「まあだだよ」によっている。映画は黒澤監督の百閒像である。百閒さんの作品を読むと黒澤監督よりもっと面白い百閒像を自分でつくることができる。百閒さんは、列車の旅が好きである。行先に目的があるわけではない。もちろん目的地に着かなくてはならないが、列車に乗っているのが旅なのである。

 

  • 目下『特別阿房(あほう)列車』『第二阿房列車』と読み進めているが、こだわりとその通りにすすむかどうかのせめぎ合いが愉しいのである。お金のことも出てくる。考えた収支決算のゆくえはいかに。鉄道唱歌の第一集、第二集の付録もおつなものである。

 

  • 百閒さんは、50歳になったときから汽車は一等に乗ろうと決めた。「どっちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。二等に乗っている人の顔附きは嫌いである。」という。大阪へ用事のない汽車の旅を思いつき、行きは、一等で帰りは三等と決める。金銭的には二等の往復である。きちんとそこまで考える。ところが、切符が取れなくて行きは一等、帰りは二等となる。帰りは、帰るという用件があるから我慢する。ところが、お金の脚は長すぎてしまう。

 

  • 陸軍士官学校の教官のとき、仙台に出張となる。自分は京都に行きたいとおもう。仙台は初めてなので仙台も行きたくないわけではない。そこで、出張の途中京都に立ち寄ることにした。仙台、東京、京都では立ち寄るとは普通考えない。東京を通ったのでは駄目なので、仙台から常磐線で平へ出て、磐越東線で郡山に出て磐越西線を通って新潟へ行く。新潟から北陸本線を廻って、富山、金沢、敦賀、米原、京都へ行く。遠回りであるが、一日の内に太平洋の平から、日本海岸の新潟へ出てみたかったのと磐越東線という新路線を通りたかったのである。銭金(ぜにかね)は年度末の出張旅費だから心配することはないとしている。現代であれば、公費の無駄使いと炎上である。もしそうなっても、百閒さんは自分なりの決着をしたであろう。それにしても汽車旅名人である。

 

  • 映画『まあだだよ』の中で、先生は可愛がっていた猫のノラがいなくなって意気消沈する。食べ物ものどを通らない。先生の祈るような気持ちをあらわして戦争のガレキの中からノラが出てくる映像なども映される。小学校の門に立ち、ノラの様子を書いたビラもくばる。小学生が「猫なら沢山いるじゃないか。」というと先生は「君は弟がいるかね。」と聴く。「いるよ。」「その弟でなくどこの弟でもいいかね。」「いやだよ。」「おじさんもそれと同じなんだよ。」「わかった。いたら報せるね。」「頼むよ。」 黒澤監督は、戦争で子供と別れてしまった親の気持ちと子供の不安を、先生と猫の関係から描かれているなと感じた。ノラは帰ってこなかった。

 

『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から  (2)

  • 実際に戦争を体験していなければ戦争文学を書けないのかという事に関しては、作家・浅田次郎さんが1951年生まれで体験していないが書きますと。その代りウソを書くわけにはいきませんから調べます。当時の天候状態まで細かくしらべます。その事から、暑さに関して、昭和30年代の8月1ヶ月、31度が数日間であとは30度以下ですと言われる。暑いですが戦争よりいいです。ごもっともです。

 

  • 戦場で芥川賞を授与した作家・火野葦平さんについて話されたが、火野葦平さんは1928年に幹部候補生として入隊しているのである。どうして入隊したのか。大正軍縮というのがあり、こじんまりとした近代的軍隊にしようということで、そこで職をうしなった将校を学校などのへ軍事教練の教師として派遣した。早稲田大学生の火野さんは、そこで将校に勧誘されたのではないかという推理である。一年間だけの入隊で将校などの幹部候補生としての資格を得るわけである。ところが所持していたレーニンの本がみつかり伍長に格下げされて除隊となります。大正軍縮というのがあったというのも驚きですが、レーニンの本を持って入隊するというのも驚きです。

 

  • 火野葦平さんのお父さんは九州若松で石炭沖士玉井組の親方・玉井金五郎で、この父と母のことを書いたのが『花と龍』で映画化されている。火野葦平さんも波瀾万丈の中作品を書きますが、浅田次郎さんは、火野さんの『インパール作戦従軍記』を高く評価される。火野さんが、従軍作家としてビルマのインパール作戦に参加して事細かく手帖に書き記したもので、戦争の中の人物がよく描かれていて、自然主義文学は戦争文学に残っているといわれた。そして、戦争は一人一人の人生を破壊するものであると。

 

  • 『インパール作戦従軍記』の紹介チラシに 「文中に「画伯」として登場する同行の画家・向井潤吉のスケッチも同時掲載。」とある。向井潤吉さんは「民家の画家」ともいわれる、自然の中の民家を描かれている画家である。『向井潤吉アトリエ館』は思いつつ行けないでいる美術館なので意識的に繰り込もう。

 

  • 火野葦平さんの小説は多数映画化されている。『陸軍』(木下恵介監督)は、最後のシーンが戦意高揚に反するとされ、木下監督が一時映画から離れた作品であるというのは有名である。芥川賞受賞の『糞尿譚』(野村芳太郎)も映画化されていた。九州の若松港関係の作品などは任侠物となって映画化されているし、そのほか青春物もある。『ダイナマイトどんどん』(岡本喜八監督)も原案が「新遊侠伝より」となっていた。

 

  • 新橋演舞場で新作歌舞伎『NARUTO-ナルトー』を観てきた。うずまきナルトとうちはサスケという二人の若い修業中の忍者が成長していく話しであるが、ふたりとも自分の知らない過去を背負っている。その過去の事実が次第に明らかになりそのことにより悩み行動し成長していくのである。うちはサスケの一族の過去を死者から語らせ、うちはサスケに事実を教えるため先輩忍者が死者をよみがえらせ語らせる。死者をよみがえらせる術を使うことはその忍者の死を意味している。死をかけて伝えるのである。そんな術はないので、『戦争はなかった』という世界にならないように、ときには、過去をおもいいたる時間を持つしかない。

 

  • 作家・堀江敏幸さんは、岐阜の多治見市出身ということで昨年も講義の中に岐阜が出てこないかと捜されて、今年も目出度く出てきたのである。昨年の岐阜は、梶井基次郎さんの『檸檬』が発表されたのが同人誌「青空」で、お金がないため岐阜刑務所に印刷を頼んだのだが、誤植で「塊」が「魂」になっていたという話しをされた。もう一度その話をされたので、そうであったと思い出したのである。『檸檬』の冒頭。「えたいの知れない不吉な塊りが私の心を始終圧さえつけた。」今年は井伏鱒二さんである。井伏鱒二さんは梶井基次郎さんの『ある崖上の感情』を読んで凄いと思ったのだそうである。

 

  • 井伏鱒二さんも、陸軍徴用員として入隊(1941年・43歳)。国家総動員法(1938年・昭和13年)は、人も物資も、国が集めろ!集まれ!となればそれに従わなければならないのである。井伏鱒二さんは、シンガポールの昭南タイムス社に勤務する。1年で徴用解除となり帰国するがその間小説を書いて送れというので『花の町』を書く。堀江さんによると戦意高揚するような小説ではなく、そこに大工で長くいた古山を軍の上の人が通訳として徴用するのである。どこでも徴用できてしまうのには驚く。その古山が岐阜の多治見出身者だったのである。今年も岐阜とつながりました。

 

  • 徴用中も井伏鱒二さんは、梶井基次郎さんの『交尾』、『ある崖上の感情』に対抗するような胆力のある作品を書いていたということである。井伏さんの小説『駅前旅館』の映画が好評で駅前シリーズができるのであるから、井伏さんにはこの胆力の中心を動かす術もあるようにおもえる。堀江さんが『遥拝隊長』についても言われたので読んだが井伏さんの作家ならではの視線である。

 

  • 堀江敏幸さんも触れていたのであるが『遥拝隊長』の中で主人公は、移動中のゴム林のなかで眼にした白鷺を書いている。爆弾で穴があいたところに驟雨で水がたまり池になっていている。「その濁り池の一つに水牛が二ひき仲よく浸かって首だけ現わしていた。その片方の水牛の角に、白鷺が一羽とまっているのが見えた。水牛も白鷺もじっとして、これらの鳥獣は、工兵部隊の架橋工事をうっとりとして眺めている風であった。」 <うっとりと眺めている風であった> は作家の目である。白鷺はアニメ映画『この世界の片隅に』でも登場する。すずは白鷺に逃げなさいと追い立てる。水兵になった幼なじみが婚家へ訪ねて来てくれて白鷲の白い羽根をくれる。すずはそれを削って羽根ペンにするのである。書くこと、描くことを白鷺がつないでくれているようである。

 

『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から (1)

  • 日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)については書き込みする気はなかったのであるが、講師のかたがたの講議から読みづらいと思っていた作品などが読めたり、観ていなかった映画などを観て見ようと触発されたので書き記しておくこととする。講議に関しての報告というより聞いてどうつながったかということである。いつもながらの、どう勝手に飛んだかということでもある。

 

  • 作家・中上紀さんが、父上である作家・中上健次さんとの家族としての生活から作品に流れている原点や書き表したかったことなどを話された。そのことで、和歌山の新宮にある「佐藤春夫記念館」で購入した『熊野誌 第50号記念冊 特集 中上健次・現代小説の方法』が読めたのである。購入したときは全然受け付けなくて中に入ることができなかったのでほったらかしてあったが、もしかしてと思って読み始めたら進んでいけた。読めたからと言って理解したということにはならないのであるが、読めたということが嬉しかった。図書館で中上さんの作品を立ち読みし借りるかどうか検討できる段階には位置する。

 

  • アメリカで家族で暮らし、アメリカから熊野の新鹿(あたしか)で暮らすことになる。中上紀さんはアメリカへは逃避であり、熊野は漂着と表現された。熊野が漂着を受け入れる場所であると。中上紀さんが話す熊野は旅をした風景を思い出させる。ところがそこから一転、熊野で<二木島の事件>が起る。そのこと脚本にしたのが映画『火まつり』(柳町光男監督)である。観ていないが中上健次さんの中での熊野の一端が発せられているようである。作品『熊野集』あたりで探れるようである。

 

  • 中上健次さんは雑誌『文芸首都』に同人として参加し、同時期の同人に林京子さんと津島祐子さんがいる。津島祐子さんは、太宰治さんの娘さんである。講師の詩人・伊藤比呂美さんが太宰治さんについて熱く語られた。昨年は森鴎外さんを熱く語られ、鴎外は夫で、太宰は愛人であると宣言し、今年は愛人について書かれた詩も朗読された。伊藤比呂美さんは津島祐子さんに会われた事があり、その時津島さんが太宰の作品の中に自分の事が書かれていないか探したと語られ、言葉に詰まったようである。出てくるのは二箇所で、一箇所は太宰の奥さんである母に抱かれており、もう一箇所は話されなかったのでわからない。次の日、中上紀さんが父・中上健次さんとの家族生活について話されたので、同じ作家の子であるが津島さんとの違いを感じ、津島さんの求めた父の心細さがふっと哀しくさせる。

 

  • 林京子さんについて話されたのが、作家であり、長崎資料館館長でもある青来有一さんである。林京子さんは1945年(昭和20年)8月9日、長崎で被爆され、そのことを作品にされたが『祭りの場』である。『祭りの場』で芥川賞を受賞された。「経験のないものが、原子爆弾のことを書くうしろめたさ」を青来有一さんが語った時、林京子さんは「自由に書いていいのですよ、小説は自由です。」といわれて大変励みになったそうです。

 

  • 祭りの場』は、被爆されて30年たって書かれたのである。記憶も薄れているということもあってか、事実関係のみで書かれている部分と、自分が逃げるときに感じた感情とを分離して書かれていて、これが読みやすかった。読み手が変な感情移入でおたおたせずに、しっかり現実をとらえることができたのである。何が起こったのかもわからず、自分のことしか考えられずに歩き続けるのである。この時林京子さんは14歳。学徒動員で三菱兵器大橋工場で労働していて、爆心地から1.3キロの場所で奇跡的にたすかるのである。動員学徒、工員合わせて7500名が働いていて、行方不明が6200名となっていて、死亡が確認できない者で殆んど死亡とみてよいと書かれている。

 

  • 青来さんによると、林さんは14歳の時、体重29キログラム。食べる物がないので体力もなく長崎高女324名のうち40名くらいは休んでいたようである。読んでいてさらに悲しいのは、その日出張で工場に行かなかった先生が次の日から生徒たちを探しにいくのであるが、二次放射線による原爆症で一か月後に亡くなっている。それも亡くなる数日前から気が狂われた。林さんは、先ず生存していることを学校に報告しなくてはと学校に向かうのであるが、爆心地の松山町を通っている。林さんは、「放射能のこわさをしっていたらこんな馬鹿はしない。」と書かれている。途中下痢をして、そのことが後になって放射能障害であるということを知る。無傷でよかったと安心していた人々が、こんどはこの放射能被爆により亡くなり、不安とともに生きることになるのである。

 

  • 10月に二学期が始まり、始業式は追悼会から始まった。各学年1クラスずつ減って400名近い生徒が亡くなった。「生き残りの生徒が椅子に座る。生徒の半数が坊主頭である。」「生き残った生徒は爆死した友だちのために、追悼歌をうたった。」「私は時々追悼歌を口ずさむ。学徒らの青春の追悼歌である。」

 

  • 春の花 秋の紅葉年ごとに またも匂うべし。みまかりし人はいずこ 呼べど呼べど再びかえらず。あわれあわれ 我が師よ 我が友 聞けよ今日のみまつり。

 

  • 「アメリカ側が取材編集した原爆記録映画のしめくくりに、美事なセリフがある。 - かくて破壊はおわりました - 」

 

  • 作家・高橋源一郎さんからのお知らせあり。
  • 8月15日 NHKラジオ第一 20時05分~21時55分 高橋源一郎と読む「戦争の向こう側」 作品は野坂昭如(1930年生まれ・終戦15歳)『戦争童話集』、小松左京(1931年生まれ・終戦14歳)『戦争はなかった』、向田邦子(1929年生まれ・終戦16歳)『父の詫び状』、石垣りん(1920年生まれ・終戦25歳)『石垣りん詩集』
  • ミュージシャン・坂本美雨
  • 詩人・絵本作家・アーサー・ビナード
  • 詩人・伊藤比呂美 (えっ!大丈夫かなとおもったら、高橋源一郎さんもどうなるのか心配ですと。どうなるかわからないくらいエネルギーのあるかた。アニメ『この世界の片隅に』の浦野すずは1925年生まれで、終戦は結婚していて北条すずとなり20歳です。)

 

戦没学生のメッセージ(戦時下の東京音楽学校・東京美術学校)

メディアで、東京音楽学校から学徒出陣として出征され自決された村野弘二さんが作曲されたオペラの譜面がみつかったということを知りました。そのオペラは、岡倉天心さんの原作で歌舞伎の『葛の葉』にもある狐と人間の物語です。残されていた譜面は狐の<こるは>が月に向かって命の恩人である<保名>を助けるために人間に姿をかえてくださいと祈る場面です。

これは、声なき声の強いメッセージと思えました。その他の方々の作品も含めてコンサートが上野の東京藝術大学の奏楽堂で行われました。(2017年7月30日)

コンサートの前にシンポジウム「戦時下の東京音楽学校・東京美術学校~アーカイブ構築に向けて」もあり参加させてもらいました。アーカイブとはなにか、今どうして学徒出陣なのか、などの問題提起から、どう活動しているのかということを報告されました。

大きな要因は、学徒出陣に関して大学にその記録がきちんとされていないこと、今やらなければ学徒出陣時代の人々が高齢化していて生きた証言が残せないということでしょう。学徒出陣というと、明治神宮外苑競技場での雨の中の行進する出陣学徒の壮行会が映像として残っていて映画などにもこの映像がつかわれますが、ではその実態はとなるときちんとした記録がないのです。

壮行会の送る側にいらした作家の杉本苑子さんも今年の五月に亡くなられました。杉本苑子さんの小説はフィクションとわかっていてもしっかり調べられているという信頼感がもてます。若い頃に戦争を体験されている方々は誤った情報を体験していますので、その分調べることにこだわられる世代でもあるように思われます。

学徒出陣は高等教育機関に在籍していた学生でエリートということもあり、エリートを特別視しているようで検証するのが遅れたということもあります。今多くの大学で調査されているようです。

美術関係ではすでに信州の戦没画学生慰霊美術館「無言館」があり、遺族の方々が亡くなったあとも保存、展示してくれる場所ができています。まだ訪ねていないのでこの夏に訪れる目的地の一つです。

コンサートのトークショーには、「無言館」の設立のために同級生たちの絵を集められた野見山暁治さんも出演されました。遺族を訪ねられた時、帰りにお母さんがコートを着せてくれて背中に手を押し付けられ、その辛さで遺族を訪ねるのは止めようと思ったこともあったそうです。生き残った方達の罪悪感は想像できない苦悩でもあった話はテレビなどでも静かに語られます。

シンポジウムが二時間でコンサートが三時間だったのですが、内容が濃く、それでいてこれはほんの一部で、まだまだしっかり調査して、保存と公開を続けていきますという今の時代のメッセージが伝わってきました。シンポジウムの調査経過の報告で、いかに大変で時間を用することかがよくわかりました。

コンサートでは、トークショーや作品解説などもあり、同じ作品の複数の譜面から作り手の考えを探ったり、今回はこちらの譜面で演奏しますなど、より作品に寄り添うというコンサートでした。

聞きたいと思っていた村野弘二さんの<こるはの独唱>は永井和子さんの独唱で蘇り最後はやはり感極まりました。感情面だけではなく『葛の葉』が洋楽になるとこんな感じなのかという同じ作品の多様性も鑑賞することができました。当時「出陣学徒出演演奏会」でも演奏されたということで、皆さんどんな気持ちで聞かれたのでしょうか。帰ってこれるということはどなたも思っていないわけですから。

まだまだ静かに探してくれるのを待っている作品もどこかにあるのでしょう。こういうことをしているということを知り、こういうものがあるのですがという事もこれからあることでしょう。

時間を超えて言葉ではいい伝えられない気持ちを交信できたような素晴らしい催しでした。

主催:東京藝術大学演奏芸術センター・東京藝術大学 / 協力:東京藝術大学大学美術館・戦没画学生慰霊美術館「無言館」・野見山暁治財団

 

夏の汗だく文学教室 <第54回 日本近代文学館 夏の文学教室>が始まり2日目が終了しました。今回は「大正という時間 ー 文学から読む」ということで、明治と昭和に挟まったすき間に差し込んだ庶民文化の兆しの短さというような雰囲気で、短い時代ということもあるのでしょうか講師の方々の語りも熱く感じられます。気のせいでしょうか。

思いがけない視点をいただいて楽しませてもらっていますので、書き込みはしばしお休みです。今回は報告はなしで、いただいたものから飛びたいと思います。おそらく映画のほうへ飛ぶことが多くなると思います。

2017年7月31日(月)~8月5日(土)午後1時~4時20分 (有楽町よみうりホール)

 

日本近代文学館 夏の文学教室(53回)(五)

前説

気になっていったことがあります。

日本近代文学館の夏の文学教室での講義について書きましたが、明治の作家の作品から少し違う観点で明治を見られているとして別枠とさせていただいた講師のかたが5人いまして、まだ書いていなかったのです。(8月11日からの続き)

自分の中で上手くまとまらずどうしたものかとぐだぐだしていたのですが、ドキュメント映画『エトワール』を見て、力を貰いまして年内に自分のまとめ方で書いてしまおうと思い立ちました。思い立っただけではなく自分流に飛びますので、言っておきますが読まれるかたは時間を無駄にしたことに後悔されるとおもいます。

本題

ロバートキャンベルさんは『都会の中に都会ありー「銀街小誌」から読む明治の銀座ー』として、小誌や写真の資料があって、明治から大正、昭和への銀座の変遷を紹介されました。

たとえば、岡本綺堂「銀座の朝」(明治34年)によると、「夏の日の朝まだきに、瓜の皮、竹の皮、巻烟草の吸殻さては紙屑などの狼藉たる踏みて」が時間がたつと「六時をすぎて七時となれば、(略)。狼藉たりし竹も皮も紙屑も何時の間にか掃き去られて、水うちたる煉瓦の赤きが上に、青海波を描きたる箒目の痕清く」となります。散乱したゴミが掃き清められ、その箒のあとが<青海波>なんです。清々しい銀座の商家前のようすです。

清々しさから、北村薫さんの『「半七捕物帳」と時代と読み』に飛びます。言わずと知れた『半七捕物帳』は岡本綺堂さんの作品です。江戸というのは、現代人とは相当違う環境のなかで生活していたわけで、闇とか、はだしの感覚とか、そういうことも愉しんで『半七捕物帳』を読んでほしいということだと思います。これは私の勝手な結論ですが、読んでいないので、読むとしたら個人的にそういうところを愉しみたいという想いなんですが。<青海波>ですからね。

北村薫さんと宮部みゆきさんの選んだ『半七捕物帳傑作選』もあるようですのでこの際読まなくてはです。

捕物帳といえば、会話も多いと思いますので、次は平田オリザさんの『変わりゆく日本語、変らない日本語』ですが、何が変わって何が変わらないのかメモからは推論できずです。

平田オリザさんは演劇の脚本を書いたり演出されたりしているかたですが、一作品も観ていないのです。平田さんなりの演劇論もあるようですがそれも把握していません。日本の演劇は近代からで、小説に比べると出足がおそいそうです。

面白かったのは、女性が管理職につくようになりましたが、男性の部下に対して何かやってほしい時、男性どうしなら命令口調でもいいでしょうが、そうはいかないということです。例えば、男性同士の上下関係なら「コピーとってくれ」でいいですが、女性の上司と男性の部下なら「コピーとってくれる」となるというようなことです。これからこうした関係に合う言葉が出来上がっていくのかもしれないということで、時代に合わせた言葉の変化ということでしょうか。

平田オリザさんの小説『幕が上がる』が映画になっているらしいのでこれは見たいです。見ます。

群馬に飛びまして、群馬在住の絲山秋子さんは『明治はとおくなかりけり』と群馬からの明治を話されました。榛名山の噴火で埋まってしまったものが、新幹線の工事で出てきたものがあり、明治の人は古代人を見ずに東武鉄道を見ていて、現代の人は東武鉄道がなくなっていて、明治の人を飛び越えて古代をみているという不思議な時間差について話されてもいました。

地方ではこれからも、電車路線の廃止で、どちらが新しいのか古いのかわからない風景となるところもあるでしょう。

群馬の代表的な文学者、山村暮鳥さん、萩原朔太郎さん、土屋文明さんでしょうが、群馬の文学館は離れていて使い勝手が悪いと言われていましたが、そうなんですよ。

群馬に関しては、自分が飛びました。前から前橋にある前橋文学館に行きたかったのです。そこに萩原朔太郎展示室があるのです。前橋は群馬の県庁所在地なんですが、高崎からJR両毛線に乗り換えなければならず、ちょっと時間的ロスのあるところで、街の中心が、JR前橋駅から離れていて、上毛電鉄中央前橋駅からの方が近く、この二つの駅がこれまた離れているのです。どうも、生糸関連の事業主の力がつよかったためのではないでしょうか。

前橋駅から乗ったバスのなかが木でできていてこれは素敵でした。バスを降りてから文学館への道が広瀬川沿いの遊歩道でこれも気持ちよかったです。文学館のなかも充実していて、朔太郎が作曲したマンドリンの曲も流れていました。

萩原朔太郎賞があって、受賞者に講演を聞いたことのある町田康さん、荒川洋治さん、伊藤比呂美さん、松浦寿輝さん、小池昌代さんのお名前がありました。

萩原朔太郎さんの孫である萩原朔美さんの「朔太郎・朔美写真展」も開催されていました。

私のほうは、朔太郎さんの娘で、朔美さんの母である、萩原葉子さんの『輪廻の暦』を数日前読み終わったところで、『蕁草(いらくさ)の家』『閉ざされた庭』を読んでからかなり時間が経っての三部作目です。

ここから土屋文明記念文学館にいくには残念ながら時間的ロスがありすぎました。

最後は、橋本治さんです。『明治の光』はお手上げです。橋本さんは読んでいてもそうですが、一つのことに沢山の知識が合体します。そして、ご自分が違うとおもわれると、初めから自分で調べるかたで、伊藤整の『日本文壇史』が面白いというので読んでみたら面白くないので、自分で調べ始めたという方なのです。

橋本さんの著書『失われた近代を求めて』シリーズを読むと光が見えてくるのかもしれません。

橋本さんの『桃尻語訳 枕草子』は「春って曙よ! だんだん白くなってく山の上の空が少しあかるくなって、紫っぽい雲が細くたなびいてんの!」というはじまりです。でもしっかり、まえがきは必読しなければいけません。「いきなり本文なんぞをめくられると多分目を回す方が一杯あるでありましょうから、こうして前説がついております。」

橋本さんの場合の前説は深い意味があります。そして、よくこんな話しことばで通し続けて書けるものだと恐れ入ってしまいます。恐れ入ったところでお終いです。

というわけで、私といたしましては、とにかく何とかしようとしていたことなので不出来は承知の助ですが、これで年越しができそうです。

 

日本近代文学館 夏の文学教室(53回)(四)

夏目漱石さん、田山花袋さん、石川啄木さんと一気に加速させていきたいところですが、どうなりますか。

姜尚中さんは「近代の”憑きもの”と漱石」ということで話されたが、姜さんは政治が専門ですので漱石さんが明治42年に大連にいっていることなどに触れ政治的な面をどう見ていたかを話されたのだと思います。思いますとするのは、こちらが漱石さんの悩みに対する明確さに欠けているということが原因です。

熊本では今年が漱石さんが熊本五高に赴任して120年で、4月13日に<漱石先生お帰りなさい>というイベントが行われ、次の日の4月14日に熊本は震災に見舞われてしまいました。新宿歴史博物館で、漱石さんと小泉八雲さんの関係を知ったので、熊本と漱石さんの関係に興味を持ちましたが、こんなイベントがあったのを初めて知りました。

松山から熊本に漱石を奪い返すと冗談を言われていましたが、松山では正岡子規さんと会っていますから、これは鏡子夫人の力をもってしても手強いかもしれません。

藤田宜永さんが、漱石に関しては「『三四郎』『それから』にみる男と女」という作品上の話しのなかで、様々なかたの作品の批評を紹介されたのですが、『それから』に対してある方が「漱石の男の友情のなかに女は入れない」と言われたということがでてきて、やはり熊本は分が悪いとひとり笑っておりました。いやいや熊本には頑張っていただきたい。

姜さんは、漱石さんが東アジアに対する言及は慎重で、『三四郎』の中で広田先生が「日本はつぶれるよ」と三四郎に言い、『門』で伊藤博文の暗殺に触れていることなど政治的な記述はすくないが、ロンドン留学時代を経て、大連旅行などをふまえ、<近代>という憑きものが落ちた最初のひとであるとされています。

明治政府が目指していた<近代>ということでしょうが、漱石さんが明治をどうとらえ、それが漱石さんの頭の中でどう形成されていったのかとなりますと実際に読んでいる読書量からしますと、う~んとうなってしまう難しさがあります。

韓国で漱石さんの全集が出たということで、韓国では漱石さんがどう読まれいるのか知りたいところです。

藤田さんの選ばれた『三四郎』と『それから』は、経済的に困らない人々の男女が三角関係で悩むという作品です。『三四郎』は、三四郎というホワイトボードにまわりの人々が色々書きこんで行くというかたちを漱石が意図的に書いているとされ、なるほどと思わせられました。三四郎は上京の列車の中から女性に出会い、そして美弥子に会います。美弥子に対する女性作家達の見方のほうが厳しいですと言われ紹介されましたが、そうくるわけですかとこれまた笑ってしまいました。

『三四郎』では、出会うだけで自分から女性に対し積極的には行動しません。『それから』では行動します。主人公代助は好きな女性・三千代を友人も好きだと知り仲を取り持ち身をひくのですが、夫婦仲の冷めた二人に会い、三千代の自分に対する気持ちを確かめ友人に打ち明けます。漱石さんは、振り返ってもう一度考え直します。

話しを聞きつつずっーと疑問だった、どうして漱石さんは恋愛小説を書いたのであろうかということが少し見えてきました。島田雅彦さんの時に感じた<思索のプロセスを見直してもどってみれば、違う道が見えてくるのではないか>ということです。

このあと代助は経済的基盤を失います。漱石さんは、もし本来の道にもどるなら現状が崩れてしまう部分もあるということを示したのではないか。

恋愛という形をとっていますが、その形態をもっと広い視野に置き換えて見ることもできます。もし、間違っていた分岐点までもどると、経済的基盤を失うこともある。では、そのまま、意に添わぬ世界を生きるのか。恋愛の関係としたのは、時代が変わっても恋愛というテーマは終わることのない問題であり、社会小説は時代がかわると読まれなくなる可能性がある。しかし、恋愛小説はいつまでも読まれるのです。私小説は、作家の私的なことをほじくられて終りとなる可能性があるので、フィクションでいく。

とまあ、思索はここまでです。自分なりにこの視点で読むともっと漱石さんが面白くなりそうだと思った次第で、いただきです。これが、私の身勝手な講義の聴き方なのです。

田山花袋さんに対しては、『蒲団』と『田舎教師』の二作品に関して二人の方が話されましたが、先に書かれた『蒲団』のほうの中島京子さんの話しからにします。中島さんは、花袋さんの『蒲団』を読まれ、処女作『FUTON』を書かれました。フートンと読むのだそうです。中島さんが自分の作品として書かれたのは、『蒲団』に出てくる女性、奥さんと芳子に注目されました。奥さんは名前も付けられず、よくは書かれていない。芳子が新しい女なら奥さんは古い女で夫がいうような女性なのか。そこで、<妻の視点をいれる><現代の視点をいれる><時代の転換をいれる>この三点をご自分の作品にいれられたとのことです。

『FUTON』読んでいませんので比較できませんが、『蒲団』は「最後主人公が若い女性にふられその女性の蒲団にくるまって女性の残り香をかぎつつ泣く」というような紹介をされていて、これだけでちょっとひいてしまいますが読んでみると、意外とさらさらしていて最後だけ紹介するのは、この小説の不運かもしれません。中島さんに三人称で書かれているといわれなるほどと感じ、奥さんには全然注目していませんでしたので、中島さんの読み方が面白いです。

『唄の旅人 中山晋平』(和田登著)を読んだとき、『蒲団』のモデルの女性と中山晋平さんが文通をしていたということを知ったときには驚きました。中山さんは最初は文学の輪のなかにいたのです。文学青年だったのです。

さて花袋さんの『田舎教師』はどうなのか。川本三郎さんが資料つきで解説してくれました。近代文学における風景の発見。中学を卒業し貧しさのため進学できず弥勒高等尋常小学校の教師となり、不遇のなか21歳で死んでいく文学青年の話しです。花袋さんの義兄のお寺にいた小林秀三さんがモデルで、義兄から話しを聞き、日記を読み小説にしたのです。

実家の埼玉県の行田(ぎょうだ)から羽生(はにゅう)の小学校までの4里(16キロ)を歩いて通い、その風景が描かれています。国木田独歩の『武蔵野』(1898年)が雑木林の美しさを書き、『田舎教師』(1909年)は生徒と行く利根川べりなどの田園地帯の風景描写がすばらしい。主人公は日露戦争の勝利の沸くなかでひっそり亡くなりますが、お墓の前で泣いてくれる女性はいたのです。

明治の終わりに文学青年がでてきて、その悩める青春小説であり、風景小説です。花袋さんは自分の小説基盤の方向性の羅針盤を変えていったといえます。

羽生の弥勒高等尋常小学校跡には『田舎教師』のブロンズ像があるようですが、残念ながら当時の田園風景ではないようです。知らない土地を歩くのは好きですので、行田には『のぼうの城』の忍城のあったところですのでピンナップしておきます。

石川啄木さんの函館での関連場所は三か所ほどたずねました。旧居跡青柳町、啄木一族のお墓のある立待岬、啄木さんの好んだとされる大森浜。その他函館市文学館、弥生小学校。函館には4ヶ月少々しかいなかったのですが手厚く扱われている。

佐伯一麦さんの視点は「小説を書きたかった男、石川啄木」です。佐伯さんは、啄木は天才気取りのところがあり、私生活はメチャクチャで借金だらけで苦手であるとのこと。結婚式は節子夫人一人で啄木は現れなかった。小説を書くのがだめだったので歌のほうにいき、浪漫的だったのが伝統と離れ散文的な生活と結びつく歌作となっていく。晩年は天才主義から脱出し、もし志賀直哉のようにお金の心配がなく長生きできれば、小説を書き続けたであろうとむすばれる。

亡くなったのが26歳(1912年)である。処女歌集『一握の砂』がでたのが24歳で、『悲しき玩具』は、若山牧水さんが見舞った際もうどこからもお金が入らないと聞き、啄木さんの歌稿を土岐善麿さんに持ち込み出版の運びとなり20円の稿料を受け、出版されたのは6月で亡くなった2ケ月後です。これは、最後まで援助した金田一京助さんの『晩年の石川啄木』に書き記しています。

節子夫人は啄木さんの死後遺骨は、節子さんの希望で函館の立待岬のお寺に納め、実家のある函館に二児をつれ帰るが、次の年に肺結核で亡くなります。27歳でした。現在ある墓碑は有志の手によるものです。

もし、函館に職を得た弥生小学校と函館日日新聞が大火で焼けなければ少し事情が違っていたかもしれませんが、天才主義の啄木さんであるなら、それがなくても飛び出していたともおもえます。

文語文から口語文になることにより、文学は一般のひとに広く浸透し、新聞小説によって明治の一般家庭にその愉しみがお茶の間に入り込むそんな時代でした。そして、文学を通じて世の中のことも、人の心の動きをも考えるという現象がおこったといえるのではないでしょうか。

 

日本近代文学館 夏の文学教室(53回)(三)

島崎藤村さんは荒川洋治さんの「明治の島崎藤村」です。藤村あまり好きじゃないんです、よくわかりませんこの人は、という感じで荒川流のしゃべり口です。私も藤村さんは好きではないので、最後はどうなるのであろうかと楽しみであった。

『若菜集』は六人の女性を対称にした詩です。五七五をあてはめると一語ぬかなければならなくなり、そうすることによって新しい強さをみせることとなり、ふるくからの様式を利用して新しくする。狡猾です。論理で押すのではなく情であり、曖昧さで押し通します。

『破戒』を越える社会小説はありません。読んでいると少しすきになってきます。なんといっても凄いのは『夜明け前』です。木曽路の宿場・馬籠の本陣が舞台で、主人公・青山半蔵は国学を学び本来の大和心を求めているのですが、明治は古代ではなく近代に進んでいく。その流れの中で伴蔵は精神を病み座敷牢に幽閉され亡くなってしまう。話していると藤村に親しみがわいてきます。

荒川さんは最終的には藤村さんの作品に寄り添えられたようです。私的には藤村さんの明治女学校時代からすきではなく『新生』で駄目だしとなるのですが、『破戒』には、夏目漱石さんも触発されたようです。『五分でわかる日本の名作』というあんちょこ本に『夜明け前』があり読みますと、伴蔵が一人では明治を受け止め得なかった流れが納得できます。伴蔵は木曽の民が自由に山林を使えた古代を理想としているのです。

馬籠にもう一度行ってみたくなりました。見方が以前とちがうとおもいます。映画でみれるとよいのですが。二時間ほどで終わりますから筋の流れと馬籠の風景もみられそうです。本陣、問場というのは名誉職的な部分もあり大変な仕事で、その周辺のひとびとも駆り出され負担が大きいのです。藤村さんすきではなくても、『夜明け前』は読んでおきたくなりました。

『夜明け前』開いてみました。時間があれば読めそうです。風景描写、庄屋・本陣・問屋の具体的な様子もわかりそうです。

伊集院静さんのお話しは「子規をめぐる明治の文学者たち」ということなのでしたが、子規さんを離れてその周辺にいくのかなとおもっていましたら、半分は伊集院静さん個人の周辺のお話しでした。

伊集院さんは『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』という本を書かれていますので、子規さんに関しては、本を読んでくれればわかるということなのでしょう。漱石さんが松山にいったのは、漱石さんは養子にでていてその養育費をはらうという金銭的問題がからんでおり、松山にいることによって、郷里にもどった子規さんと共同生活をするのですから、何がきっかけとなるかわからないものです。

子規さんが亡くなったときは、漱石さんはまだ留学中のロンドンでした。

話しのなかで印象的だったのが、子規さんが亡くなった時の母八重さんの一言です。八重さんは亡くなって子規さんの着物を替えつつ背中をだき「痛いといってごらん」(さあ、もういっぺん痛いと言うておみ)と言われたそうで、これまた八重さんらしいひと言だったと胸にどんとひびきました。劇団民藝『根岸庵律女ー正岡子規の妹ー』で、子規さんが亡くなった後で、母親の八重さんが庭に飛ぶ蛍にむかって「ノボさんあんたが悪いのよ」とつぶやいて終わるのも芝居のながれとしてじーんと沁みましたが、痛い、痛いと言っていてつらかったでしょうが、痛いが生きてゐると言う証拠なんですね。

子規さん関係の本をめくってましたら、木曽路をたどったときの『かけはしの記』という紀行文がありました。

藤村さんの『夜明け前』は「木曽路はすべて山の中である。」で始まりますが、子規さんの『かけはしの記』の結びは「信濃なる木曽の旅路を人とはゞたゞ白雲のたつとこたえよ」となっています。

つぎは、与謝野晶子さんです。東直子さんが「与謝野晶子と同時代の女性歌人」として、与謝野晶子、樋口一葉、山川登美子、増田雅子、柳原白蓮の歌を資料にして話されました。

当時の女性歌人は、白い花で自分のイメージキャラを作っていて、晶子が「白萩」、登美子が「白百合」、雅子が「白梅」という愛称をもっていました。

熱き想いを歌い上げる晶子であるが、「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」など熱い恋をうたっているのに個人で終わっていない恋する人々全てをおおっている。

沈みがちの鉄幹をフランスへ行かせ、自分でお金をつくり子供達を預けりフランスへ旅立ちます。「生まれたる日のごと死ぬる日のごとく今日をおもひてわれ旅に行く」

フランスにつけば「ああ皐月(さつき)仏蘭西(フランス)の野は灯の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟」、生き生きとしている女性をみて教育に関心をもち、日本へ帰ってから寛とともに文化学院創立に係るのです。

圧倒されるばかりの行動力です。東さんが、晶子は堺の実家で菓子屋の商売を手伝っていて数字に強いひとで合理的な考え方があったといわれましたが、賛同できます。情熱だけではなく、合理的な瞬時の判断があったとおもいます。子供が11人。何年かたてば上の子供が下の子たちを見ます。家計も、鉄幹と旅をしつつ、歌を作って収入を得ていた部分もあります。合理性と情熱の無意識のバランスがよかった人とおもわれます。当時の女流歌人のなかで抜きんでていたかたでした。

東直子さんが最後に、与謝野晶子さんの「君死にたまふことなかれ」を朗読されましたが、今の時代となれば深くひと言ひと言が響きました。

堺といえば、利休さんと晶子さんだと電車を降りたち、観光案内所で聞きましたら何もありませんでした。でも今は、「さかい利晶の杜」ができ、その中に、「与謝野晶子記念館」があります。「千利休茶の湯館」とあわせると結構時間がかかりました。

文学教室も、生徒によっては、話しの筋から逸脱し外に飛び出す引き金となっていきそうです。確かめているとこちらの関係のほうが面白そうと引っ張られてしまいそうです。