民俗芸能『早池峰神楽』『壬生狂言』『淡路人形芝居』(1)

国立小劇場での【第129回民俗芸能公演】が2日にわたってあり、見たいと思っていたものばかりで意気揚々とでかけたのですが、時間をかけて市井のひとびとが守り続けてきた芸能の重さと力に負けてしまい、どっと疲れてしまいました。しかし、観ておいて良かったと思います。月並みな言い方ですが、風雪を乗り越えて今にいたっているのです。庶民が楽しんでいたものだからと簡単に考えていましたら、どうしてどうして、こちらの気で返すことができなかったらしく、次の日ダウンでした。年末からの疲労の限界だったのでしょうが、この芸能で負けたのは満足です。

2日間にわたっているとはいえ、岩手県の『早池峰神楽』、京都の『壬生狂言』、淡路島の『淡路人形芝居』を観れたのですから贅沢このうえないです。国立劇場さんは、50周年記念企画の意気込みをこれからもお願いしたいです。

これらの伝統民族芸能に関して、書き始めは花道からの押し戻しのような体力の必要性を感じています。民俗学に関しては奥がずずずいーと深いので、パンフレットを参考にさせていただきつつ、こちらも確認しつつ思い出しながら書いてみます。

早池峰神楽』は<大償(おおつぐない)>と<(たけ)>の二つがあり、今は決められた日に公開されますが、かつては、Y字の右から左、左から右へと一年交代で集落をまわり、娯楽のない農繁期の人々にとっては、待ちわびていた楽しみでもあったのです。今回その両方が観れたのですから、かつての二年分を一気に観させてもらったのです。

調べましたら、花巻市大迫交流活性化センターで、第二日曜日を「神楽の日」として神楽公演をしているようです。

能、狂言の前に猿楽があり、「都で流行していた猿楽が、各地を行脚(あんぎゃ)する山伏たちによって東北地方に運ばれ、それが残されたのではないか」(本田安次氏説)ということなのですが、山伏というのは、今でいえば映像の電波のような役割をもしていたことになります。

義経を逃がす時山伏と強力となってというのも、道なき道を歩いていたとしても怪しまれません。ただ関所は難関です。そして『勧進帳』のようなドラマが生まれます。『黒塚』も、はるかかなたの熊野のからの阿闍梨と山伏ですから、老女・岩手がもしかして救われるのではと期待をふくらませるのもわかります。

神楽のほうは、<大償神楽>が、鳥舞、天降、鐘巻、<岳神楽>は、天女、五穀、諷誦、権現舞が披露されました。最後の権現舞は常に最後に舞われるもので、獅子の頭が舞台に捧げられていて、『鏡獅子』と同じようにそこから踊り手は下舞のあと獅子頭(ししがしら)を受け取るのです。この獅子頭は、旧南部藩領内では「権現様」と呼ばれていているそうです。獅子舞と同じように、権現様の幕にひとが入り舞います。

この舞以外には頭に鶏を付けた鳥かぶとをかぶっています。鳥かぶとの下には左右にシコロ板というのが下がっていて、動きによってそれが動いて羽が動いているように見えるのです。「鳥舞」は舞うのは男性ですが、着物は女性物です。

鶏は、私たちにとってなくてはならない存在です。鶏の命をもらって、自分たちの命をささえているともいえます。かつては農家の庭を走りまわっていたり田舎の家には鶏小屋があったりして卵の恩恵にあずかっていました。鳥かぶとの横には、赤と緑の葉っぱのような上に白い丸が描かれていて卵を意味しているのでしょう。

色々な神様との関係があるのですが、個人的にはそれよりも、人と鶏が一体になって踊るところに、この神楽の<命>に対する土着性のようなものを感じました。

「鐘巻」は道成寺ものですが、安珍、清姫ではなく、鐘巻寺が女人禁制のためその寺の鐘の緒を切って蛇になるというのです。凄い女子力です。蛇は、白い布を棒に結んで控えている人がいて、その白い布を持って肩にかけて離すといった感じで、巻くまでにはいたりませんがヒューヒューという蛇の鳴き声が聞けます。

「天女」は、女性用の着物の上半身を脱ぎ後ろにたらし、綺麗いなブルー系の上半身の着物で、白い二枚扇で舞います。「諷誦(ふうしょう)」は、荒々しい神が悪神悪鬼を退治するというもので、二本の刀を使い、演者さんは肩で息をしていました。

「早池峰神楽」と早池峰に住む人々を映像にしたのが、羽田澄子監督の『早池峰の賦』です。悔しいことに昨年観逃してしまったのです。1982年の作品ですので、35年前の地元の人々と神楽の関係が残されているとおもいます。出会えるのを楽しみに待つことにします。

 

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