映画『ざ・鬼太鼓座』(2)

映画『ざ・鬼太鼓座』から、加藤泰監督の「緋牡丹博徒シリーズ」三本を見なおしました。

緋牡丹博徒 花札勝負』(1969年)『緋牡丹博徒 お竜参上』(1970年)『緋牡丹博徒 お命戴きます』(1971年)

『緋牡丹博徒 お命戴きます』を最初に見たのですが、下からのローアングル、長廻し、場面転換の速さなど、この映画の延長線上でもあったのかと捉えていなかった映像上の方法の特色がどんどん見えてきました。

『ざ・鬼太鼓座』を見なかったら気がつかなかったでしょう。『ざ・鬼太鼓座』は筋があるわけではなく、言葉は最小限に押さえていますから、映像に集中します。そうするとその映しかたの長短や、次に飛ぶ場面、映される物、人の表情、体のどの部分などが、自分の眼に飛び込んできます。その時のリズム感、見つめる長さなどによって受ける側の好奇心、映される人々の動きやそれに伴う心のありかたを知ろうとする思いなどの振幅がゆれます。

人の片方の眼が大きくアップで映し出されたり、ぱっと椿が映ったり、満ち潮の中で踊る人の後方の波しぶきと静かに足下の砂に海水が近づいてくるようすなど、加藤泰監督の美意識が注入されています。

それが、筋のあるものになると、そちらに気をとられますが、今回は矢野竜子(藤純子)と結城(鶴田浩二)の出会いでの位置関係、アップなどの変化が、これだと思わせてくれました。結城の焼香にお寺の階段を上がってくるお竜さんの現れ方などは、流れの中で、新鮮さを吹き込んでくれます。

ラストの立ち回りで、お竜さんが玉かんざしを投げる場面で玉かんざしがはずされ片側の髪がさらっとながれますが、あそこは富司さんの提案で監督が取り入れてくれたのだそうです。立ち回りで髪がほどけるのは『お竜参上』でもありますが、ほどけかたが違い、『お命戴きます』のほうが髪が長く柔らかさをもって動きます。

『ざ・鬼太鼓座』で、万華鏡のように花札が舞う映像があります。剣舞の衣装の腰の後ろの部分に二枚の花札の柄を用いていて、この万華鏡の花札で、加藤泰監督はこの万華鏡の花札映像を入れたくて衣装にも使ったのだなと思っていましたら、万華鏡の花札はすでに『お竜参上』で使っていました。『ざ・鬼太鼓座』のほうが、すっきりとした美しさで広がります。

アフレコを嫌い同時録音を目指し、「音に匂いがするんだ」と監督が言われていたと富司さんは語られています。そういう意味あいからも、鬼太鼓座との演奏の音との勝負も監督にとっては遣り甲斐のある作品だったことでしょう。

雑誌「和楽」で『坂東玉三郎 すべては舞台の美のために』という特集雑誌を出しているのですが、そこで、玉三郎さんと太鼓奏者の林英哲さんが対談をされています。

林英哲さんは、映画『ざ・鬼太鼓座』のころは座員で、もちろん映画に出られています。監督は撮影所の土を掘ってカメラを据え、ローアングルで大太鼓を打つ林さんの姿を足の先から上に向かって映しています。

対談の中で、林さんにどうして鬼太鼓座に参加したのかを玉三郎さんが聞かれています。林さんは美術をやりたくて浪人中で、鬼太鼓座主宰のサマースクールのようなものに横尾忠則さんが講師のひとりだったので参加して、むりやり入らされたという感じだそうで、鬼太鼓座の創始者は田耕(でんたがやす)さんです。

鬼太鼓座を後押しされていたのが、横尾さん、和田誠さん、宇野亜喜良さん、永六輔さんなど有名な方々がたくさんおられたようで、林さんはドラムをやっていたのでなんとか叩けたそうで、ほとんどが素人です。映画のなかでも、メンバーの母親に近い年代の女性が、上にいければいいが食べていけるかどうかわからないのだから自分の子どもなら賛成しないと語られていました。

林さんはその後独立され、ひとりの大太鼓奏者としての道を切り開いていくわけです。

映画『ざ・鬼太鼓座』から、加藤泰映画監督とその作品をあらためてさぐることが出来、鬼太鼓座の成立、鼓童の結成、ソロ太鼓奏者の誕生などをとらえることができました。そして今、それらの動きは芸能集団から芸術集団へと変化しつづけているのです。

 

 

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