歌舞伎座6月歌舞伎『浮世風呂』『一本刀土俵入』

浮世風呂』は澤瀉十種の一つです。猿翁さんが猿之助時代に書かれた『猿之助の歌舞伎講座』の澤瀉十種のところを読み返してみました。「猿翁十種」が『二人三番叟』『酔奴』『小鍛冶』『吉野山』『黒塚』『高野物狂』『悪太郎』『蚤取男』『独楽』『花見奴』で、「澤瀉十種」が『二人知盛』『猪八戒(ちょはっかい)』『隅田川』『夕顔棚』『檜垣(ひがき)』『武悪』『三人片輪』『浮世風呂』『連獅子』『釣狐』で、自分が選んだと書かれています。

猿翁さんは、祖父である初代猿翁さんの踊りをさらに工夫して『浮世風呂』に関しては、曲は長唄で、最初風呂屋の前を大勢の人が通る群舞があったのをとってしまい、長唄を常磐津にかえ、木村富子さんの原作にある、小唄、端唄、民謡が入る部分を初代が省いていたのを復活させたとあります。

この小唄、端唄、民謡部分は現猿之助さんの見せ場ともなり、音楽的にも楽しい場面でもあり、初代さんの踊りがどんなであったかはわかりませんが、猿翁さんの工夫の『浮世風呂』は、身体の舞踊性もあり楽しく、踊り手四代目猿之助さんの上手さをも引き出させています。

風呂屋の三助が仕事の合い間に踊るという趣向で、ナメクジが出てくるというのも可笑し味がありますが、ナメクジの種之助さんがそばに寄られると嬉しいような、いやいややはりナメクジであるからと思わせる好い雰囲気で、新たな愛嬌のあるコンビを楽しませてくれました。そして、猿之助さんの踊りを存分に味わわせてもらえました。

一本刀土俵入』も茂兵衛の幸四郎さんとお蔦の猿之助さんは、少し差が出過ぎてギクシャクするのではと思ったのですが、そんな心配はありませんでした。茂兵衛が、お蔦を美しいと思い、あばずれだと船戸弥七の猿弥さんがいうと、そんなことは無いとムキになって言い返す茂兵衛の言葉が映えるお蔦さんでした。

夫を死んだと思っても女の細腕で娘・お君(市川右近)を育てる生一本のところもあるのですから、一時の生活苦からくる自棄な部分の中に、お蔦の本質は見えていたともいえます。有り金から櫛、簪までくれた恩からくる美しさだけではないお蔦を茂兵衛は心の中に刻んだのだなというおもいにかられました。そう思わせる猿之助さんのお蔦でした。

そして十年。お腹を空かした取的の茂兵衛は渡世人なっていました。取的の情けない可笑しさから一匹狼の風を切る渡世人の違いを幸四郎さんは、すぱっとすっきりとみせてくれます。

長く音沙汰のなかったお蔦の夫・辰三郎の松緑さんがいかさま博打をやって追われてお蔦のもとに帰ってきます。そんな中でもしっかりしているお蔦。後悔しつつもお蔦とお君との再会に心震わす辰三郎。この親子の関係が情ある場面となっているので、お蔦が逃がしてくれる茂兵衛に何度も頭を下げるのが実をもっての茂兵衛への土俵入の花向けとなります。

茂兵衛がお蔦を探しあてるのが、お蔦の歌った越中小原節を娘のお君が父の辰三郎に聞かせるのを耳にしてというのも上手くつながっている作品です。

そこに、その土地を仕切る任侠の歌六さん、松也さん、猿弥さん、船頭の錦五さん、巳之助、船大工の由次郎さん、酌婦の笑三郎さんなどが加わり、水戸街道の様子を芝居とともに登場人物で構成してくれました。

歌舞伎座5月歌舞伎で書いていなかったのですが良い舞台でした『魚屋宗五郎』について少し書きます。菊五郎劇団の手堅さが出た芝居で、笑いを取ると言った方向は押さえて、市井の人々の生活の中での悔しさをお酒という力をかりてしか表すことの出来ない悲しさと可笑しさ、そして醒めてみれば、やはり殿さまを前にすると何にも言えなくて、お金を頂戴してしまうという身につまされる、何とも言えない生活感覚を見事に作りあげました。

魚屋宗五郎の菊五郎さん、女房おはまの時蔵さん、父親太兵衛の團蔵さん、小奴三吉の権十郎さんの長い間の積み重ねが抵抗感のない自然の動きですんなりと気持ちよく流れ、受け入れていました。作っているという感じのない、魚屋一家のつながりでした。

無理に笑わそうとしていなくても、芸の積み重ねでみせてくれる味わいでした。

あとは辛口気味ですが、『吉野山』の海老蔵さんと菊之助さんは美しいお二人なのに花見遊山ような舞台装置は不要とおもいました。『伽羅先代萩』も想像していたのとは違い芝居の山場の緊迫感の締めが甘かったようにおもいます。申し訳ありませんが、期待していたので辛めです。

思いました。舞台という狭い空間でも、その時代性の空気が見えたり、感じたりできるかどうかということ。これって大事なことなのではないでしょうか。

 

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