信州の旅から群馬へ・坂本宿(6)

<めがね橋>でボランティアの説明の方が、軽井沢はリピーターがいるがここはいないからと言われていましたが、そんな事はないと思います。歩きやすいし秋の紅葉などはまた来たいと思います。<熊ノ平>残していますし、温泉の質も良かったです。友人に話したら歩きたいと言っていました。

温泉で身体も軽く、温泉施設のかたに坂本宿への道を確認。それらしい建物は残っていませんよと言われました。なるほど建物は残っていませんでしたが、きっちりと説明や石柱は設置していてくれていました。家々には屋号が標示されています。「上州中山道坂本宿・丸仁屋跡・西 京へ百二里」

小林一茶さんは、信濃の郷里・柏原への行き来に宿泊したのが定宿「たかさごや」で、一茶さんがくると旦那衆から馬子、飯盛り女にいたるまで指を折って俳句に熱中したとあり、一茶さんらしい表現です。碓氷峠の<覗き>という坂本宿が一望できる場所で詠んだ句。 坂本や袂の下は夕ひばり

若山牧水さん宿泊は「つたや」。碓氷峠にアプト式鉄道が開通して15年後の明治41年ごろには坂本宿はさびれてしまいます。この年の8月6日軽井沢から坂本宿へ入り、一軒残っていた宿「つたや」に無理に頼んで泊めてもらいます。そして暑さに寝付かれず焼酎をもとめて糸操りの歌を耳にしてできた歌。 秋風や碓氷のふもと荒れ寂し坂本の宿の糸操りの唄

坂本宿の旅籠のおもかげを残す「かぎや」。屋根看板も残っています。

坂本宿には二つの本陣があり、文政年間には31大名が往来しています。東に碓氷関所、西に碓氷峠をひかえて、坂本泊りは必然で、大名のすれ違いもあり、二つの本陣が必要でした。その一つ佐藤本陣は、明治8年には坂本小学校として開校しています。

もう一つの金井本陣には、皇女和宮内親王も宿泊されています。御降嫁にあたりお付き添え、迎え都合3万人ともいわれています。

文久元年の絵図には巾14、8メートルの道路の中央に川巾1、3メートルの用水路があり、その両側に本陣、脇本陣、旅籠、商家が160軒あり賑わっていました。

今、この水路は車道と歩道の間の両脇にあり、新しくその水音が涼やかで美しい直線を描いています。水路のないところでも道の下を豊富な水が流れている音が聞こえます。

小さな赤い鳥居の水神宮がありました。この水神はもとはこの地より東の40戸あまりの集落の原村にあって水を大切に思っていたが、現在は容易に安全に得られるため粗略に扱いがちであるが、水神を詣でることで水への認識を深めたいものであると書かれています。もっともです。水道の水がすぐ飲めるなんて凄いことです。

さて、横川駅への脇道を土地のかたにお聞きして進むと「碓氷馬車鉄道由来」の案内板がありました。我が国二番目の馬車鉄道とあり、一番めはどこかとおもいましたら、新橋~日本橋間(1882年・明治15年)でした。横川~軽井沢間(1888年・明治21年)開通で、蒸気機関車碓氷線が明治26年にでき姿を消します。

そして、出発時にはぷい!をした<碓氷関所>の道標。温泉に入り、坂本宿を歩きはじめると習慣は恐ろしい。再び汗を吹き出しつつも身体は東海道歩きバージョンになっていました。

<招魂碑由来>。碓氷アプト式鉄道の建設は、距離11、2キロ、26のトンネル、18の橋梁、高低差553メートルを1年9ヶ月の短期間で開通しました。技術力も凄いですが、その人海戦術には多数の犠牲者もあったといわれています。その碑をこの地へ移して忘れることなく冥福を祈ろうということです。実際に歩いて見て本当にそう思います。

<碓氷関所跡> 碓氷坂にあった関所がこの地に移りました。門柱および門扉は当時のもので総ケヤキ材で金具を用いていて昭和34年に復元しました。

<おじぎ石>というのがあり、通行人はこの石に手をついて手形を差し出し通行の許可を受けたとあります。

横川駅に到着。<峠の湯>から1時間です。無事<碓氷関所跡>も通過できました。最後は「碓氷馬子唄」の説明が。

元来馬は音楽を好む動物で、音に対して非常に敏感であると言われていて、苦しい峠の道すがら、馬子たちが唄った馬子唄は人馬を励ますための唄だそうです。シャンシャンの鈴の音は唄声に合わせる調子としてなるほど好い音だったわけです。

一に追分二に軽井沢三に坂本ままならん

西に追分東に関所せめて峠の茶屋迄も

碓氷峠のあの風車たれを待つやらくるくると

雨が降りゃこそ松井田泊りふりゃなきゃこします坂本へ

様々な歴史をみてきた碓氷峠ですが、当然、葛飾北斎さんとお栄さんの歩く姿も目撃していたわけです。そんなこんなを思い巡らす坂本宿でした。

これにて信州から碓氷峠を越して群馬の旅も幕となります。シャンシャン!

 

 

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