『鉄砲喜久一代記』(3)

  • 喜久次郎と関係したその他の人たちについて。相撲の常陸山は若いころから喜久次郎の吉原の家にきていた。その常陸山が突然伊勢松坂の巡業中にいなくなってしまった。東京相撲にもどるのはそれから三年後である。そのころは名古屋相撲とか京都相撲とかにわかれていたようである。常陸山は名古屋相撲で腕をあげ大阪相撲にいた。東京相撲も詫び状を入れてもどることをすすめる。こばむ常陸山。彼の気持ちを変えさせたのは喜久次郎であった。喜久次郎は鉄砲を封印して言葉を玉にして相手を打つ修業をしてきたような説得力である。常陸山は頭を下げ、幕下から出直す。常陸山は親に反対されて入った相撲界だった。それから三年後大関になった時、喜久次郎の計らいで親にも晴れ姿をみてもらい勘当をとかれる。

 

  • もう一人若者が出入りしていた。立原卓蔵で、その後花井家の養子となる花井卓蔵ある。吉原で喧嘩していたのを喜久次郎が助けたのである。卓蔵は、代言人(弁護士)の試験に受かっていた。腕力じゃなく説得力で相手を負かすのが本筋だろうと喜久次郎に言われ、ごもっともですとばかりに納得する。彼はその後、金玉均事件、足尾銅山の鉱毒事件、伊庭想太郎事件、日比谷焼打ち事件など世の中の人々が注目する事件を弁舌爽やかに闘う。日比谷焼打ち事件では、この国民大会に喜久次郎も参加していて、彼の知り合いが多く検挙され花井卓蔵に弁護を頼むことになる。芝居などにでてくる代言人は、法をかざしてお金の取り立てをする人なので、こういう弁護士もでてきていたのかと考えをあらたにする。

 

  • 残念なことに頂点を極めながら転げ落ちるのが桃中軒雲右衛門である。雲右衛門は兄弟子の三味線弾きの女房と結ばれ西に落ちていたが、九州で大人気となっていた。雲右衛門の東京進出を喜久次郎は頼まれる。喜久次郎は別当の時、小繁時代の雲右衛門の浪花節を聴いており会っていた。事情を知り、引き受けた喜久次郎は自分の本郷座でやらせた。さらに「でろれん」といわれていた浪花節を歌舞伎座で興行させたのである。大成功であった。しかし喜久次郎には違和感があった。成功とともに頭も上がるばかりである。ついに喜久次郎は雲右衛門と手を切る。喜久次郎がいないとなるとレコード『義士銘々伝』著作権の問題がぶりかえされ、そのころから雲右衛門は酒を浴び、胸の病気で亡くなってしまう。(大正5年・43歳)

 

  • 喜久次郎と澤田正二郎が会ったのは大正5年である。澤田は島村抱月の劇団・芸術座に参加していた。新劇による芸術至上主義を掲げていた劇団・芸術座が浅草の常盤座に登場した。浅草の大衆のための行楽街への進出は、新劇の理念からすると賛否両論があった。島村抱月と松井須磨子の結びつきは、抱月と師・坪内逍遥との仲をさいた。いろいろあった劇団・芸術座も『復活』での挿入歌『カチューシャの唄』、『その前夜』の挿入歌『ゴンドラの唄』の流行で、松井須磨子は大女優となっていた。その相手役が澤田正二郎であったが、澤田は須磨子のわがままに嫌気がさし、芸術座を脱退していたが、抱月に呼び戻されての浅草であった。澤田は浅草の体験でその後庶民のための芸術を探すことになる。

 

  • 喜久次郎は澤田に真剣の切り合いについて自分の子供時代に見た天狗党などの死闘から話す。この時耳にした話が、後の澤田の剣劇の殺陣の探求へとつながる。抱月は大衆にうけたもうけで芸術劇をめざすという作戦をつきすすめようとしたが、澤田は疑問を感じ、須磨子の言動にも嫌気がさし、再度芸術座を脱退し新国劇を結成する。抱月の急死で須磨子も後をおうことになる。新富座での新国劇の旗揚げは不入りで関西にて、澤田の殺陣の探求はうけいれられ東京での明治座での公演となる。最初は不入りであったが『父帰る』『国定忠治』で盛り返し『大菩薩峠』で大当たりとなる。

 

  • 島村抱月とのこともあり、澤田は浅草進出をためらっていたが、喜久次郎のすすめもあり、松竹のもとをはなれ、喜久次郎の公園劇場での浅草乗り込みとなる。新しい大衆演劇をめざし『国定忠治』『机竜之介』『月形半平太』『清水次郎長』『沓掛時次郎』などの剣劇が庶民の大喝采となる。剣劇だけでなく澤田は、真山青果作の『桃中軒雲右衛門』なども上演している。しかし、大事件も起こった。大正12年8月29日、浅草象潟(さきかた)警察署員による新国劇座員の40数名の連行事件である。賭博の現行犯の名目で連行され、拷問もおこなわれた。澤田も威儀を正して出頭したが、鉄拳と靴の襲撃をうけた。喜久次郎も警察庁へ出頭し収拾を依頼。9月1日には、あの関東大震災である。座員は警視庁の地下から、非常事態における責付放免として釈放された。どうも他の興行師からの妬みがあったようである。

 

  • 喜久次郎の言葉が、あの事件がなければ、公園劇場の中は満員で、そのお客を殺さずにすんだのだから神に感謝しなくてはならないであった。そして公園劇場の焼け跡で天幕をはり、東京として復興第一番ともいえる公演をしたのである。根岸浜吉の亡きあと根岸興行は、金竜館でオペラを、常盤座で新派あるいは旧派の芝居を、東京クラブでは、映画を上映していたが、三館共通券という方式もこころみている。三館を廊下で結び、映画入場料が七銭だったので、十銭にしたのである。安すぎとおもうが、一日のうち三館全部見られる人は数少なく、二館みるとしても十銭は安いと大当たりだったらしい。これは経験してみたかったです。映画派もちらっとオペラをみれて、次はオペラを主にと思うお客もいたであろう。

 

  • 昭和3年に喜久次郎(70歳)は息をひきとるが、お葬式で棺をかついだのが両国の春日野(栃木山)部屋の力士たちであり、その先導をしたのが澤田正二郎であった。友人総代として花井卓蔵、横山大観の名もあった。澤田正二郎は翌4年になくなっている。36歳という若さであった。喜久次郎は鉄砲を封印したあとも鉄砲喜久の名前で呼ばれ、鉄砲喜久がいうならと難しいこともおさまったといわれる。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です