『鉄砲喜久一代記』と「江戸東京博物館」(2)

 

  • 別当の喜久次郎のほうは、泣く子も黙る小金井金次郎一家を相手にするときがきた。小金井一家のものが馬車の伝法(ただ乗り)をしたのである。黙っているような喜久次郎ではない。相手をやりこめ、後日払うという約束をとりつける。相手から金を渡したいと連絡がくる。喜久次郎は一人で乗り込んだ。その時懐から出したのが鉄砲だった。これは、郵便馬車には重要な郵便や現金が積まれていて襲われたことがあり、それから駅逓局は別当のおもだったものに鉄砲を持たせていたのである。このときから「鉄砲喜久」の名前がついた。しかし、いざこざはおさまらず喜久次郎は警察のやっかいになる。

 

  • 警部から大福餅を出され、このままではお前の一生はまっとうできない。八王子から姿を消せ、と言われる。その人は、子供の頃、父の使いでの山道で倒れていた天狗党のひとであった。喜久次郎は、持っていた大福餅と弁当を与えて助けたのである。喜久次郎の実家は菓子製造をしていた。八王子に来てすぐ警察につかまり釈放してくれたのもこの人であった。

 

  • 喜久次郎は新宿で飲み屋を始める。ところが、客は別当仲間で、小金井一家や他の一家も客として相手をしなくてはならない。そんなおり不審火で店は焼け、隣家も焼けてしまい債務の問題で裁判所に呼び出された。その裁判長が、喜久次郎の親戚で、喜久次郎は今のやりかたでは滅亡しかない。自分で火をつけたのと同じだ。鉄砲を封印し、どん底からやり直せとさとされる。預けられたのが吉原の稲弁楼で、ここで技夫(牛太郎)として働くことになる。このとき喜久次郎、31歳。

 

  • 牛太郎とは、番頭のことで、立派な牛台の上にすわって、客の呼び込み、楼内すべての監督をしていた。外からみるとただの呼び込みにみえるが、「毎夜登楼した客の人相、推定年齢、顔立ちの特徴、服装など」を記録して警察に届ける仕事もしていた。短時間のやりとりでそれだけを把握していたのである。

 

  • ここで喜久次郎は、亡くなった初恋の人お辰に会ってしまう。名前もお辰であった。この人は、辰巳楼の女将であった。主人に早世され、実質的な後援者がすでにいた。後援者というのが、台屋であった。台屋というのは、客の食する物を直接座敷へ届ける仕出し屋で、この台屋者が郭で腕力を振るう客に腕力をもって応酬できる荒っぽい男たちであった。それでも喜久次郎はあきらめられなかった。そんな時、根岸浜吉と再会する。10年ぶりである。

 

  • 浜吉は浅草六区建設の夢に向かってつきすすんでいた。浜吉は喜久次郎の願いを引き受けてくれ、喜久次郎とお辰は結婚できたのである。ただし、辰巳楼はたたみ、新たに稲弁の二字をもらい辰稲弁とし、喜久次郎は入り婿となった。入り婿の条件として、吉原はねぐらで仕事は浜吉達と外でするとした。喜久次郎は、この商売をやめたかったが、その後の話し合いでもお辰にはお辰の考えがあり曲げなかった。結婚式には、守田勘弥が黒の礼服で、左團次は舞台の富樫の衣裳に長袴だけとりかえて駆けつけたので、吉原はてんやわんやである。ただの牛太郎であった鉄砲喜久はたちまち大物になってしまった。

 

  • この頃、勘弥は高利貸しとのやり取りで大変だったが、落ち目の新富座に左團次は残っていた。『上野戦争』と『勧進帳』で大入りとなり、木挽町にできた歌舞伎座のほうがが苦戦。勘弥は歌舞伎座に興行主任としてむかえられ、歌舞伎座で再び團・菊・左の舞台が実現するのである。勘弥は明治30年に亡くなり、新富座は時を経て松竹の経営となるが関東大震災で崩壊し再建はされなかった。関東大震災での浅草寺の修復もおこなわれる。その時観音堂の屋根の中心にあった鬼瓦取り外されてしまう。その鬼瓦が「江戸東京博物館」の一階に置かれている。崩壊したものには十二階の凌雲閣がある。浅草公園のひょうたん池からその姿を眺める絵があるが、「江戸東京博物館」の浅草ゾーンにその模型がある。ゆっくり眺めにいく。

 

  • 前に来た時より見た事のない模型の凌雲閣が身近になってみえる。浅草公園は、明治6年に上野寛永寺と芝増上寺が公園になったのと時を同じくしている。浅草は低地で浅草田んぼとよばれていた。六つに分けられ、浅草の行楽街の全盛期には、一区が浅草寺、二区が仲見世、三区が浅草寺伝法院、四区が木馬館通り、五区が花やしき、六区が映画館街である。根岸浜吉の六区建設の夢は四区、五区、六区が含まれていた。風紀問題、喧騒など様々な問題があったが、六区浅草公園内で道化踊りの興行許可がやっとおりる。続いて玉乗り、のぞき眼鏡、剣舞、幻燈、パノラマなどが人々をたのしませることになる。

 

  • 江戸東京博物館」には、その後の、六区の電気館や映画館街のジオラマや地図などがある。ひょうたん池は今のウインズ浅草(JRA場外馬券売場)のところにあった。ウインズ浅草の前にあった映画館がなくなり、今は建物がないので明るく、その通りからひさご通り、花やしき通りが行きやすくなり、ここはど~この細道じゃと散策しやすくなった。浅草には高い建物は似合わない。今のうちに楽しんでおくことにする。博物館には、江戸時代の実寸大の日本橋があるが、今回は意外と短いのに気がつく。両国橋と広小路の見世物小屋などのジオラマもあり、中村座もある。四谷怪談の小さな舞台の仕掛けがもあり、短時間で提灯ぬけ、仏壇返しなど係りの人が説明してくれる。

 

  • 吉原には三きくがそろった。大阪楼の松本菊次郎。中村楼の菊次郎。辰稲弁の山田喜久次郎である。明治29年三陸沿岸で地震による大津波がおこる。吉原には東北出身者多い。三きくは支援物資をもって災害地に飛んだ。想像を超えていた。喜久次郎は、顧問をしていた本郷の春木座(のちの本郷座)で天災の大変さを伝える『三陸大海嘯(つなみ)』の芝居を沢村吶子(とつし)を中心に上演し、救済をうったえ大入りで、慈善興行の収益金を東北三県に送った。春木座は本郷座になってから新派の人気もあり一流の劇場の地位をえる。

 

  • 根岸浜吉は喜久次郎より32歳年上であったが85歳(明治45年)でなくなり長命であった。二人の間にお金の貸し借りはなく、喜久次郎は浜吉に仕えた。根岸興行内にあって喜久次郎は浜吉の代理を勤められる実力がありながら、相談役に徹し、出資者としての立場にはたたなかった。浜吉は浅草公園に常盤座をたて、金竜館では映画で儲け、赤坂に中劇場の演技座をつくった。演技座は歌舞伎役者の稽古場的役割を果たし、新派の井伊蓉峰はここで育った。浜吉に実子がないため親戚の小島丑治を娘と結婚させ養子とした。この後実質的浅草六区の繁栄は、養子の小島丑治とそれを支えた喜久次郎の力による。

 

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