歌舞伎座9月『河内山』『松寿操り三番叟』

  • 河内山』。<上州屋質見世の場>からである。河内山宗俊の吉右衛門さんがいつものように、怪しい棒切れを持参して、これは由緒正しい木刀だからお金を貸せとせまる。いつも偽物を大仰に言ってはお金をせびられるのであろう。番頭はことわる。お店をおもう忠実な番頭である。ところが、宗俊は番頭など初めから相手になどしていなくて軽くあしらう相手でしかない。そこら辺が宗俊の軽口の様子からよくわかる。

 

  • 取込み中らしいが、宗俊はお構いなしで奥へ行こうとする。後家の女将・おまきが出て来てその取込みの説明をする。思案にくれて、宗俊に頼まなければならない意思を腹におさめて魁春さんはしっかりと説明する。娘の浪路が奉公先の松江公に妾になれと閉じ込められているというのである。商家ではどうすることもできない。そこをイチかバチかで宗俊なら何か考えだしてくれるかもと期待するのである。宗俊は引き受けて、200両を要求する。手付として100両。その100両は和泉屋清兵衛の歌六さんが差し出す。女将と清兵衛に頼まれて宗俊は引き受けたのであるが、ことによると自分の命と引き換えの大仕事と覚悟を決める。上州屋の場があるといかに危ない仕事であるかがわかる。

 

  • 松江邸に行く時はすでに覚悟のことゆえ、こちらの策略にいかに相手を乗せるかであり、堂々と相手が怖れるのを確かめつつの演技と口である。松江邸では、腰元までが浪路の苦境を心配している。皆ピリピリしている。特に主人の松江侯は面白くない。主人をいさめるものと、主人をたきつけるものとに分かれている。そんなところへ上野寛永寺からの使僧がやってくるのである。何事か。どんな些細な事でも外に知られてはならないと戦々恐々の家臣たちである。そこも宗俊のねらいどころである。

 

  • 取り繕うとする弱みに付け入ろうとの魂胆でもある。しかしそんなそぶりは見せない。僧として人望を感じさせる吉右衛門さんである。家来たちも何とかしなければの心もちであるが、主人が姿を出さない・・・。そこへ不快という松江侯があらわれる。家臣に対する時とは違う表向きの顔の幸四郎さんである。宗俊はその表の顔を体よくはがしていく。相手の心理を読みつつ、使僧の役目を果たさなければ私も困るのですよ、まあお互い上手くやりましょうよの方向にもっていく。なんとも裏に通じている方であるから言い回しが上手いのである。松江侯は深入りしないように申し出を承諾。

 

  • 家臣たちも、お家大事であるからお金で済むならと、要求にこたえる。事なきようにと取り仕切る家老の又五郎さんと数馬の歌昇さん。それに従う種之助さんに隼人さん。この芝居のときは、そのほかの従者の動きも失敗しないかと気にかかるのである。家臣の動きは松江家の格式を感じさせるところであり、そこがしっかりしていないと河内山の大きさも出せない。そして玄関先で北村大膳の吉之丞さんに見破られてがらっと態度をかえる河内山。しまった!と思いつつもからっと明るくその場の空気を変える。松江侯も出て来て厄払いである。そこに持って行けた河内山の笑いは小気味よい自画自賛でもある。

 

  • 黙阿弥さん、松江邸の場は幾つかの展開を考えていたのではないだろうか。悪人であるのに観る者がやったー!と溜飲を下げる落ちの腕前は作者も役者もさすがである。河竹黙阿弥住居跡が浅草の仲見世のそばにあり、思いつつ浅草に行くと訪ねるのを忘れてしまう。先頃、突然思いもかけない時にその石碑に遭遇した。肝心なものを忘れてはいませんかってんだいと言われたようであった。

 

  • 黙阿弥さんは浅草から本所へ移るが、司馬遼太郎さんは『街道をゆく』の「本所深川散歩」で、今の墨田区亀沢二丁目だが、私にはさがしあてられなかったと書いている。今は「河竹黙阿弥終焉の地」としての表示がある。

 

  • 松寿操り三番叟』。理屈ぬきに楽しかった。国立小劇場の『音の会』で『寿式三番叟』を観て、「三番叟」のテープなかったかなとさがしたら、「操り三番叟」が出てきた。9月の演目にもあるのでと聴いていたので気分は上昇。後見の吉之丞さんが箱から操り人形の三番叟を出してくる。出されているように見せかけるのは三番叟の幸四郎さんである。吉之丞さんの所作台を踏む音も気に入ってしまう。テープのなかでも聞こえていたがあの通りなのであろうか。聞き直してみたら足で調子をとるがなかなか難しい。歌舞伎ギャラリーなどで、映像を映して、足を下すとあのような好い音をだしてくれる装置を考え出してくれないであろうか。足を踏み鳴らすところをしらせてくれて。気分爽快とおもう。上手く出来ればの話しであるが。

 

  • 幸四郎さんは、幸四郎という名跡を継がれて、変声期のような変わり目を通過中のような気がする。役者さんとして大きくなりつつあり、人を楽しませるということも大事にされているので、それを同時にと思われているような気がする。襲名という立場に委縮されていないのが頼もしい。

 

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