『ジゴマ』の大旋風

  • 浅草六区の映画関係をさぐると、活動写真『ジゴマ』のことがでてくる。もう少し知りたいと思っていたら良い本にめぐりあえた。『怪盗ジゴマと活動写真の時代』(永嶺重敏著)である。読みやすくよく調べられている。活動写真の『ジゴマ』が、活動写真だけではなく小説本としても出版され、映画、出版の力で『ジゴマ』人気は爆発的となる。

 

  • 活動写真のほうは弁士というものがつき、それがまたまた『ジゴマ』に魅力を加えたようである。さらに『ジゴマ』は子供たちにも人気でそのことから、教育上好ましくなく、犯罪を誘発するということで、上映禁止となる。さらに映画の検閲というものがそれまでいい加減であったものが『ジゴマ』によって確立されていくのである。それらの流れが順序だてられながら明らかにされている。

 

  • 活動写真『ジゴマ』は明治44年11月に浅草公園「金龍館」で公開される。フランス映画で、凶悪な盗賊ジゴマと探偵ポーランの活劇探偵映画であるが、この悪い方のジゴマが主人公となって暴れまわるようである。それが弁士によってさらに色を加えて語られ観客は惹きつけられる。驚くのは、明治天皇が崩御され明治45年7月30日に明治から大正と改元される。地方映画館では、明治天皇の『御大葬実況』の映像と『ジゴマ』が併映されてもいたのである。

 

  • この本で面白いのは、弁士の活躍も書かれている。活弁の創始者・駒田好洋さんは、巡業隊を組んで『ジゴマ』を持って地方都市をまわっている。それを、江戸川乱歩さんは名古屋の「御園座」でみている。その体験が乱歩さんの作品に影響を与えるのである。後に映画監督となった伊丹万作さんも松山でみている。

 

  • 駒田好洋巡業隊はブラスバンドつきで駒田好洋が燕尾服にシルクハット、白手袋で指揮をとっての行進である。そのパフォーマンスにも人気があった。想像しただけでも人々のどよめきが聞こえる。幕間の休憩には、長唄の『勧進帳』『吾妻八景』を駒田好洋さん自ら他の弁士と演奏したとある。これが三味線演奏なのかどうかはわからない。京都では「歌舞伎座」(新京極にあった歌舞伎座であろう)、南座でも上映している。

 

  • 活動写真は配給だけだったのが次第に映画製作→配給→専属映画館での封切などと変わってくる。活動写真のほうは特に小学生に人気があった。出版界は活動写真の『ジゴマ』を忠実に文字にしていたが、小説版の新しい『ジゴマ』作品に乗り出しこれが中学生に人気を博す。さらに日本版の『ジゴマ』の活動写真も制作され、その内容が俗悪化していく。そこで、東京朝日新聞が『ジゴマ』映画が犯罪を招くと記事を連載。このことがきっかけで大正元年10月9日に」『ジゴマ』上映が禁止される。そしてこの処分の混乱から映画検閲方法が一本化されていくのである。

 

  • 『ジゴマ』のまえから、活動写真館の館内が子供の健康に悪いという事は問題視されていたようだ。窓を開けてのわずかな換気での空気の悪さ。ほこり、タバコの煙、人の吐く息、さらにフイルムの劣化による映像の悪さによる視覚に対する悪影響など。そこにきて『ジゴマ』の犯罪者が逃げのびてしまうのである。その旋風は子供たちをも巻き込みながら、ジゴマブームは一年間で終わってしまうという呆気ないようなみじかさであった。

 

  • 映像と活字メディアは、『ジゴマ』から集客ということでは、その方法論を学んだことであろう。活動写真は映画と言われるようになるのが大正中期だそうで、添え物の映像が自立する過程でもある。『ジゴマ』は流行りものは浅草から始まるという一つの象徴でもある。『ジゴマ』の三文字が、なかなか実体として思い描けなかったが、その実態を浮き彫りにしてくれたのが『怪盗ジゴマと活動写真の時代』である。状態のよいフィイルムで見せて貰った気分である。

 

  • 『ジゴマ』時代にも問題視された浅草の不良少年。大正時代の中期頃からエンコ(浅草)の不良として登場するのが、サトウ・ハチローさんである。とにかくすったもんだの問題児であった。『実録 ぼくは浅草の不良少年 サトウ・ハチロー伝』(玉川しんめい著)によると不良でも女性ぬきの硬派だったとしている。映画館で男女がイチャイチャしていると、警察の者だがちょっと外へと連れ出し、後で調べるからちょっと待って居なさいといって男女を置き去りにし、存分に映画をたのしんだとある。

 

  • 『怪盗ジゴマと活動写真の時代』によると大正6年(1917年)に「活動写真興行取締規則」ができ、男女客席が区別されるので、サトウ・ハチローさんが男女を映画館から追い出したのはその規則ができるまえであろう。さらに、『サトウ・ハチロー伝』では当時の変わり者警視総督で、文人である丸山鶴吉に宛てた訴えの中に、映画館の男女席の撤廃は風紀を乱されるとして反対したとある。これは、昭和6年(1931年)に規則が撤廃され、男女席が同じになった時のことであろう。

 

  • サトウ・ハチローさんは、浅草公園の興行師・根岸吉之助さんにビール代をもらい事務所でごろごろしている時期があった。「金龍館」の表事務所に用があり行くと以前よく顔を合わせて苦笑いをした刑事としばらくぶりで合った。話しを聞くと根岸の三館共通館に刑事をやめて勤めていたというような話も書かれている。『サトウ・ハチロ―伝』のほうは、ハチローさんをとりまく不可思議な知り合いがチラホラと多数でてきて噴き出してしまう。その後よく知られるようになった人の名もある。浅草にはあだ名だけの有名人も存在していた。不良だからこそ接することができた世界がそこにはある。

 

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