映画『12人の怒れる男』『12人の優しい日本人』(2)

  • アメリカ映画『12人の怒れる男』(1957年)は、1997年に『12人の怒れる男 評決の行方』(ウイリアム・フリードキン監督)でアメリカでリメイクされている。1957年版のオリジナルが上映時間96分で1997年版が117分である。1997年リメイク版は基本設定は変わっていないが陪審員の人物像が強くなっている。

 

  • 1997年版は、陪審員10番がスラムに住む人々に対する悪意が他の陪審員から病的だといわれるほどである。映画では、休憩時間にトイレで陪審員同士が話しかけるところがあり、その人の生活感や他の陪審員に対する見方が出てくるのがひかれる。野球観戦に行きたかった陪審員がセールスマンで、8番にあんたは優秀なセールスマンだと皮肉をいったり、他の陪審員が自分は職人で、面倒なことは親方がやってくれるからこういうのは苦手だという。ところが、目撃者の状況見直しのときにはその職人の労働経験が生かされるのである。

 

  • スラムに住んでいる陪審員は、飛び出しナイフの持ち方を知っていて、少年が上から被害者を刺殺したという疑問に呼応する。証拠の飛び出しナイフの使い方を実演し、下から上に刺すと話す。この陪審員はオリジナル版ではスラムに住んでいたことがあるとしている。無罪にいたる陪審員の生活感もオリジナル版よりリメイク版のほうが濃い演技を要求しているしアップなどで協調している。

 

  • 自分の経験してきた生き方や私憤などをぶっつける陪審員は、はっきり主張し、その人に対してその考え方は違うだろうという感情を他の陪審員に与える。そのことがなおさら、目撃者が目撃したという事実が本当かどうかを検証していく冷静さが加わるのである。自分の経験が生かされると思った時、人は自分のこととして真剣になる。リメイク版の陪審員8番はジャック・レモンで、こちらのほうが雄弁である。ヘンリー・フォンダのほうが疑問があれば知りたいという朴訥さである。1997年版は、環境の違う場で生活していることが物の見方にも相違があり、それぞれの人々がそれぞれの意見があるのだということを思い起こさせる。

 

  • ニキータ・ミハルコフ監督版『12人の怒れる男』(2007年)は、始まりから驚かされる。戦闘のあった後の場所に雨がふり、死んだ人が見え、そこを犬が雨に濡れながら走って来る。この場面は最後にも出て来る。上映時間が159分と長い。少年が自転車で田舎を走り、母親に「ロシア語を話して」と何回か言う。これはどうもちょっと違うな。ニキータ・ミハルコフ監督版だなと覚悟する。

 

  • 殺人の設定はチェチェンの少年が養父であるロシア元軍将校を殺したとの容疑である。現代のロシアの問題も大きく取り込んでいる。ニキータ・ミハルコフ監督も陪審員2番で出演している。そて陪審員2番が陪審員長となり、最後に有罪を主張するのである。それはなぜか。有罪で刑務所のほうが少年は長く生きれるというのである。無罪となりこの少年は誰も頼る人がいない。この少年は真犯人を探すであろう。真犯人はこの少年を殺すであろう。だから刑務所のほうが安全なのだと。

 

  • 容疑者である少年も映像にかなり出てくる。少年はチェチェン紛争の戦闘で父母を亡くし孤児となり戦闘の中で見つけられ引き取られるのである。そのため少年の体験した過去の映像が挿入されている。独房での少年の動きも映される。始めは寒さのために、規則的に動く。次第に身体を回転していく。これは、少年が兵士から踊りながらの独特のナイフさばきを見せられ一緒に踊る場面と重なることがわかる。アメリカ版とはナイフも違う。

 

  • 陪審員室が改装中で12人の陪審員が案内されたのは学校の体育館である。パイプがむき出しになっていて、こんなところで子供たちが学んでいるのかなどロシアの現状に対しても12人の陪審員の目がいく。そしてその意見のやりとりが強烈である。アメリカ版よりも一人一人の意見や生き方がもっと複雑でそれぞれを観るお互いの交差線も複雑である。上映時間が長い分陪審員の一人一人の発言も長い。

 

  • 目撃者の検証も体育館の体育道具なども使い舞台のような映像である。さらに少年の住んでいた建物が立ち退きを要請されていたことがわかる。ここもアメリカ版とは大きく異なるのである。新たな展開となり、陪審員2番の危惧が生じるのである。しかし、無罪であると思っているのでの評決は無罪となる。このあと、そうなるのであるかという状況が映される。大きな問題を抱えつつ、無実になった少年のその後までを考えたのがロシア版である。ラスト最初の雨の中の犬が次第に近づいて来る。この映像、メッセージがありそうである。

 

  • 笑いの多い『12人の優しい日本人』。4本の映画を観た後で気がついて笑ってしまった。三谷幸喜さん、そこまで考えていたのであろうかと疑問であるが、この映画での被告が無罪になった後はどうなるか。ハッピーである。5歳の息子と今まで通りに生活できるのである。ここまで深く考える必要があるのかどうか疑問であるが、そこまで考えても大丈夫なような設定である。恐るべし。

 

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