映画『脱出』・『ケイン号の叛乱』

ローレン・バコールの初出演映画が『脱出』(1944年・ハワード・ホークス監督)である。ハンフリー・ボガートとの共演で私的にはハンフリー・ボガートとの恋という大きな出会いの映画であった。しかしその話題に頼る必要のない映画登場場面である。ハンフリー・ボガートから煙草の火を借りるのである。インパクトがさく裂である。そこから、ローレン・バコールから目が離せなくなる。

フランス領のある島でハリー(ハンフリー・ボガート)はホテルに泊まり、所有する船で釣り客などを案内して気楽に暮らしている。のん兵衛のエディが助手である。ホテルの主人のフレンチ―から反政府活動家の移動を頼まれる。そんな時、目的なく自分の意志で行動する流れ者の女性マリー(ローレン・バコール)と出会う。

活動家ポールを船に乗せ運ぶ途中で銃撃され、ポールは肩に弾丸を受ける。ポールと妻のエレーヌはホテルの地下室にかくまわれる。ホテルには警察の捜査が入り見張っている。ハリーはポールの肩の弾丸を抜く。エレーヌは失神してしまうが、マリーは気丈に顔色を変えることなくハリーを手伝う。

筋立ての振幅の大きさの中で気の利いた台詞が配置されている。さらに弾丸を取り出した時ハリーはいう。「一度跳ね返った弾だから浅くて済んだ」。そうなのである。意外と簡単に取り出せたのである。映画だからとおもってしまうが、きちんと説明があるのでリアルさも感じさせる。

さらにポールは政府の転覆をはかるため次の目的先までの移動をハリーに頼む。ポールは自分は勇気がないし、それを実行する能力もないが次につながってくれる人がいることを信じている。君のように手伝ってくれる人をとハリーに語る。ハリーは政治的意識はないが手伝うことにする。

酔っ払うと何を話すか分からないエディが警察に連れていかれるが、エディも助け出す。マリーにはアメリカに帰るように切符を渡し、船に乗る。何んとか無事ポールを送り届けることができホテルにもどると、そこにはマリーの姿があった。マリーは腰で音楽のリズムに合わせ人々の間をハリーへと進む。ローレン・バコールの表情よりも仕草などでの表現が冷静さと隠された色香で魅了される。

モデルであったローレン・バコールの写真をハワード・ホークス監督に見せたのは監督の妻である。ローレン・バコールを自分流の女優に育てようとしたが、彼女はハンフリー・ボガートとこの映画の撮影後に結婚し、映画会社の言う通りの女優とはならなかった。ボギーと結婚していなければ自分の意思を通せたかどうかは疑問である。

映画『脱出』は、ヘミングウェイの原作『持つと持たぬと』で、ジュールス・ファーストマンが脚色したが原作に近く政治的にまずいということで、その後、ウイリアム・フォークナーが脚色して原作とかなり離れる。フォークナーはヘミングウェイの原作とあって喜んだようである。そのためかどうかはわからないが、何んとなく台詞に艶があり、納得させる台詞も散りばめているように思える。

1950年に原作に近いリメイク版『破局』(マイケル・カーチス監督)が映画化されている。そのうち観ることにする。『三つ数えろ』も見直さなくては。

映画『ケイン号の叛乱』(1952年・エドワード・ドミトリク監督)は、ハンフリー・ボガートが反乱を起こす正義の味方かなと勝手に想像していた。なかなかハンフリー・ボガートが出てこない。若いキース少尉候補生が主人公なのであろうか。キースの恋人・メイはクラブ歌手のため母親にも紹介されず身分違いの恋もからんでいるようだ。

キースは古い駆逐艦のケイン号に配属される。副艦長・マクイ大尉、キーファー大尉などに次々と紹介されていく。デヴリース艦長も出て来る。かなりルーズな艦長で海兵隊もぴりっとしたところがなくキースは少々不満である。そんな時、艦長の交代があり、新しくクイーグ艦長がくる。これがハンフリー・ボガートである。ということは叛乱されるほうのようである。見方を変えてボギーの演技に集中する。

キースは海兵隊の風紀係を命じられる。ところが艦長は神経質で注意し始めるとそのことに執着し大きなことにたいして目がいかなくなり、航海上のミスをする。しかし自分のミスとは認めず、上部に対しても上手く言いのがれてしまう。上陸する隊の引率擁護も早い時点で引き返してしまう。士官たちも不信感を抱き始める。

さらにデザートのイチゴが残っているはずなのに残っていないのは誰かが食糧庫の鍵を作って盗んだとして全員の鍵を出させ名札を付けさせニセ鍵探しとなる。

キーファー大尉は艦長は偏執狂症だと主し、副艦長、キーファー大尉、キースの三人は提督に報告書を出すことにするが、最後の段階でキーファー大尉はやはり下りると言うことで三人は取りやめにする。

大きな台風にあう。ところが艦長の様子から艦長の指揮では船員たちの命が守れないとして副艦長が、艦長の指揮権を解除して自分が指揮し始める。船は無事台風からのがれられたが副艦長は反乱罪で軍法会議にかけられる。

反乱罪は絞首刑である。軍医たちは、艦長は正常であるとし、キーファー大尉も艦長は正常であったと証言する。ところが艦長が証言台に座り弁護人の質問に答えるにしたがって次第に精神的に追い詰められ正常さが崩れ始める。その艦長の変化を無言で見つめる裁く側の人々。

艦長は自分の意見が認められなかったり、責められることに我慢ならないのである。その事が頭の中を支配し、直面する問題に正常な判断ができなくなってしまう。そして間違いを認めず自分の意見に固執する。副艦長は無罪を勝ち取る。ところが弁護士は士官たちに、君達には失望したという。艦長が謝った時もあったはずだ。なぜそれを受け入れ艦長に協力する態度を示さなかったのかと。さらに裏切ったキーファー大尉を糾弾する。皆、キーファー大尉を残して去る。

キースもこれらのことから成長し、恋人をきちんと母親に紹介し結婚。副艦長として乗り込んだ船にはデヴリース艦長がいた。

弁護士がクイーグ艦長の長い間の闘いでの心理状態を語ったときそういう見方をするのかとちょっと逆転劇となったが、少し唐突でもあった。艦長のハンフリー・ボガートは劣等感と孤独感と責任感にさいなまれ次第に陥った現在の艦長を同情をはねのける異様さで演じていた。

原作はハーマン・ウォ―クのピューリッツアー賞受賞作品である。

第二次世界大戦の1943年の話しとして描かれているが、デザートにイチゴのシロップかけが出ていたのには恐れ入ってしまった。この数カ月、日本の独立プロ系の映画をみつづけていたので、あまりの兵士たちの状況の違いに愕然とする。日本は、食べ物もなく、兵器の替えはないが兵隊の替えはいくらでもあると言われる。兵士はつぶやく。俺たちは死んでからでないと文句を言えないのだな。

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