『類』(朝井まかて著)(1)

』はひとことで記すつもりであったが、森鴎外さんの三男・森類さんがが主人公なので登場する人々が凄いのである。そのたびに、こちらの旅の思い出と重なってきてその後を追うことにした。

千駄木の文京区立『森鷗外記念館』の地に二階が観潮楼である森鷗外邸での森家の生活が描かれているので、その地を訪ねたことがある者としては、先ず団子坂に面したその空間に人々が交差していたのかと想いがめぐる。ところが団子坂の方は裏で、薮下通り側が表門であった。それだけでも頭の中が回転する。

鷗外さんは北側には自分で花畑を作り楽しんでいたようである。

記念館は団子坂の方からいつも入っていたので、こちらが森邸も表と思っていた。記念館は薮下通りに抜けられるがチラッと覗いて団子坂側に戻っていた。今度、薮下通りも歩いてみたい。

鷗外さんの亡くなった後邸宅は、表門の東側は前妻の子であり長男の於菟(おと)さんが西側の裏門のほうは類さんが相続する。

次女の 杏奴(あんぬ)さんは、様々な習い事をしていて全て全力投球している。絵画、日本舞踊、フランス語、源氏物語、漢語。舞踊はかなり力を入れ、いままでの師匠を不満として劇評家の紹介で新しい師匠につく。その師匠が市川猿之助さんの母堂である。欧米に留学したとあるから二代目猿之助さんである。さらに、猿之助さんの妹が鼓の名人の夫人なので、太鼓と鼓も習うことになる。鷗外夫人も本物を身につけさせたいと力を入れ、ついに 杏奴さんは力尽き身体をこわしてしまう。そのため踊りのほうはやめてしまう。

類さんも杏奴さんと一緒に長原孝太郎さんから絵を習っていて長原さん亡き後は、藤島武二さんに師事していた。鷗外夫人は二人を絵の勉強のためフランスへ留学させる。その時力を貸してくれたのが与謝野鉄幹・晶子夫妻である。かつて鉄幹さんがパリ滞在中に晶子さんが飛んで行くがその時手を貸してくれたのが鷗外さんであった。

長女の茉莉は翻訳をしたものを、与謝野夫妻の新詩社の『冬拍(とうはく)』に連載してもらっている。与謝野夫妻や特に晶子さんは旅の途中で歌碑などよくであう。一番新しいのは散策中に出会った千駄ヶ谷の『新詩社の跡地』。

パリでお世話してくれたのが、画家の青島義雄さんである。このかたの絵は『茅ヶ崎美術館』で初めてお目にかかった。マチスに認められた方というので驚いたが、「在仏の日本人画家では藤田嗣治(ふじたつぐはる)と並び大看板と評されている。」と本にあり、あの画家だと再会できたように嬉しくなった。岡本太郎さんも出現し、そういう頃なのだと時代的流れがわかる。

杏奴さんはパリからもどると、パリでも顔見知りの藤島武二さんの門下生の小堀四郎さんと結婚する。小堀四郎さんは小堀遠州の子孫である。杏奴さんは父・鷗外のことを書き、単行本となる。その本の装丁を考えてくれたのが木下杢太郎さんである。森鷗外さんの死後、残された家族に優しく接してくれたひとりである

木下杢太郎さんは、静岡県伊東市に『木下杢太郎記念館』があり伊東駅からも近く訪れたことがある。生家が木下杢太郎記念館になっていて、商家で中が薄暗かったのを覚えている。杢太郎さんが描かれた花の絵の絵葉書を購入したが、植物図鑑のような地味さである。

類さんが結婚する。媒酌人は木下杢太郎夫婦である。お相手は画家・安宅安五郎さんの長女・美穂さんである。その母親のお姉さんは尾竹一江(尾竹紅吉)さんで『青鞜』の婦人運動にも参加したことがあり、陶芸家の富本憲吉さんと結婚しいる。『青鞜社発祥の跡地』は鷗外邸のすぐ近くである。

結婚式には斎藤茂吉さんが祝辞を述べたようで、類さんにとって斎藤茂吉さんも優しく接してくれたひとりである。斎藤茂吉さんというと歌作に没頭して子供たちから変なおじさんと思われていたということを読んで偏屈なイメージがあったが、この本での類さんに接する様子は穏やかで楽しげで精神科医としてはこのように接していたのかもと違う姿を想像した。

戦争が始まり、類さんは徴兵検査では丙種で、福島県の喜多方へ疎開する。東京の空襲で千駄木の家は焼けてしまう。鷗外夫人が生きている時に、於菟さんは東側の家を出て人に貸して火を出され、西側だけが無事で住んでいたのである。その火事で東にあった観潮楼も焼けてしまっていた。

終戦後は類さん一家は、鷗外夫人が買って類さんの名義にしてくれていた西生田にバラックを建てて住んだ。そこで類さんは疎開先でも書いていた文筆家を目指すようになる。美穂さんの母の福美さんは佐藤春夫さんと知り合いで三人で詩の習作を見てもらいにいく。佐藤春夫さんも類さんに優しく接してくれる人の一人である。三人が訪ねた佐藤春夫邸は今は和歌山県新宮市にある『佐藤春夫記念館』である。二階に日当たりの良い八角塔の小さな書斎があった。

千駄木の焼けた家の敷地に文京区が史跡を残す方針で、斎藤茂吉さんや佐藤春夫さんが発起人となってくれ「鷗外記念館」を建てようということになり、敷地は於菟さんと類さんが区に譲ることにした。ただ類さんはこの地を離れがたく40坪ほど所有し本屋を開くことにした。家族は子供4人で6人にふえていた。

働いてお金を得るという事の出来ない類さんは、遺産も戦争で紙屑となり、父の印税が少し入るだけであった。それまでも美穂夫人のやりくりで何とかしのいできたが、美穂さんの実家の思案の末での提案であった。

斎藤茂吉さんに店の名頼む。『鷗外書店』と『千朶(せんだ)書房』を考えてくれた。類さんは『千朶書房』を選んだ。案内状は佐藤春夫さんが書いてくれた。観潮楼あとは『鷗外記念公園』となり前途洋々にみえるが、そう簡単ではなかった。類さんは自転車で本の配達に励む。あの辺りは坂が多いから大変であったろう。その間美穂さんが店番をし、子供4人の面倒をみる。いやいや、類さんも子供みたいなところがある。類さんが主人公であるが、疎開中といい美穂さんの頑張りは大変なものである。

本屋ということで著者の朝井まかてさんは、その時々の評判になった小説などを上手く紹介してくれて時代の流れというものを読者に伝えてくれている。この手法がなんとも読者にとっては納得させる善きスパイスでもある。

佐藤春夫さんも優しいだけではなく、物を書く人間として励まし方に実がある。岩波と揉めていた類さんの原稿を雑誌「群像」に載せるように尽力してくれる。『鷗外の子供たち』。美穂さんは大喜びである。絵もダメ、勤め人もダメ、やっと光が射したのである。さらに初めての著書として光文社カッパ・ブックスとして『鷗外の子供たち あとの残されたものの記録』となった。

松本清張さんが芥川賞を受賞した『或る「小倉日記」伝』の発想の元となっている鷗外さんの「小倉日記」は類さんが見つけたのである。このことも驚きであった。もし類さんがもっと世に出た物書きならこのことも類さんの手柄となっていたかもしれないがそうはならなかった。

『鷗外記念公園』は『文京区立鷗外記念本郷図書館』に代わることになり、類さんは立ち退くことになり本屋も閉めることとなり杉並に引っ越すのである。この『文京区立鷗外記念図書館』にも一度行ったことがある。記憶のなかでは、がっかりした想いが残って、これが団子坂かとそちらのほうで満足した。

その後、美穂夫人が亡くなられ、類さんは、思いがけない行動となる。こちらの想像とは違っていてむしろ笑ってしまった。森家の別荘「鷗荘」のあった千葉の日在(ひあり)に類さんは家を建てる。最後はそこの地で終わっている。パッパ(鷗外)は、おまえは類としての生き方を貫いたよと微笑まれているようにおもえる。

日在の海岸は、電車からながめているとおもうが頭の中に映像が残念ながら浮かばない。

森家を背負って生きた人々の複雑な関係も描かれている。森家の人々の作品としては鷗外さんをのぞいて森茉莉さんのを一番読んでいる。他の人もおそらくそうなのでは。残念ながら類さんのは読んでいないのである。さらにこの本を読んで、鷗外さんの『半日』と『妄想』を読み返したい。読んだという印はついているがなさけないことにまったく記憶にのこっていないのである。『』から森家のことがこれからも少しずつ動きそうである。

あと、川崎の生田にある『岡本太郎美術館』もまだ行けていないのでそこも訪ねたい。もちろん千駄木の『森鷗外記念館』にも出かけます。類さんはパッパの記念館、目にすることができませんでした。

行くのはいつになるでしょうか。友人の娘さんが癌の手術をして抗がん剤の治療にはいるとのことです。病で不安なかたがコロナでさらに医療現場に不安になることがありませんように。

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