『更級日記』にて京の都へ(4)

平安時代に書かれた『更級日記』の筆者は、菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)とされています。お父さんの菅原孝標は貴族の役人で、地方を治めるために任を受けて上総介(かずさのすけ)として赴任していました。娘も一緒についてきていてその任期が終わり京にもどることになります。任地は今の千葉県市原市付近とされ、娘は13才です。

任期が何年だったのかはわかりませんが、筆者は、あづま路のはてよりももっと奥で自分は世間しらずの田舎者と思っています。そんな娘心をなぐさめてくれたのが物語です。

特に都で流行っているという『源氏物語』に心ひかれています。周囲からその物語の一部を聞き知って、早く都に帰れて全部読めますように薬師仏にお祈りまでしています。光源氏にあこがれ、現代にも通じるような娘さんだったのです。

出立は9月3日で京都に入ったのが12月2日ですから約3ヶ月の旅です。長い旅です。

上総の国 *ふりかえると薬師様が見え人知れず泣く 

下総の国(いかた、ままの長者跡、くろとの浜、太井川のまつさとの渡し)*お産をした乳母と分れる

→ 武蔵の国(竹芝の坂、あすだ川の渡し)*筆者はあすだ川を業平が「いざこと問はむみやこどり」と詠んだすみだ川と勘違いしている 

→ 相模の国(にしとみ、唐土が原、足柄山)*やっとの思いで足柄山を越える 

→ 駿河の国(関山、横走の関、富士山、清見が関、田子の浦、大井川の渡し、富士川、ぬまじり)*ぬまじりをでてから筆者は患う 

→ 遠江の国(さやの中山、天竜川、浜名の橋、いのはな坂)*天竜川を渡る前数日滞在し筆者の病いおさまる 

→ 三河の国(高師の浜、八つ橋、二むらの山、宮地山、しかすがのわたり)*八つ橋は名ばかりで橋もなく見どころもないが宮地山は10月末で紅葉が残っていて美しかった

→ 尾張の国(鳴海の浦、墨俣の渡し)*鳴海の浦では潮が満ちないうちにと走る 

→ 美濃の国(野がみ、不破の関、あつみの山)*のがみでは雪がふる 

→ 近江の国(みつさかの山、犬上、神崎、野洲、くるもと、湖上になでしまと竹生島、勢多の橋、粟津)*勢多の橋は全部くずれていて渡るのに難渋 

→ 京の都に入る(逢坂の関)その夜、三条の宮(一条天皇の皇女修子内親王)のお邸の西にある家に到着。*家はあれていて深山の木のような樹木があり都の中とは思えない有様

平安時代と江戸時代の東海道の道筋はやはりちがっています。三カ月ですから病がおこることもありました。武蔵の国は今の東京をふくんでいますが「葦や萩のみが高く生えて、馬に乗って持った弓の上端部が見えぬまで、高く生い茂っていて、そんな中を分けていく」とあります。

富士山については次のように表現しています。

「普通の山とはすっかりちがった山の姿が、紺青(こんじょう)を塗ったようですのに、頂には消えるときもない雪が降り積もっておりますので、色の濃い衣に白い相(あこめ)を着たように見えており、山頂の少し平らになっている部分からは煙が立ちのぼっております。夕暮れには、火の燃え立っているのも見られます。」

たくさんの国々を通り過ぎてきたが、駿河の清見が関(きよみがせき)と逢坂の関(おうさかのせき)ほどいいところはないとも記しています。

美しい風景も通過しますが、江戸時代のように宿場があって宿屋に泊まるという状態ではなく仮小屋のときもあるようで、時には仮小屋が浮いてしまうくらい雨が降ったりもします。大変な旅であったのが想像出来ます。のちに父親が再び常陸介(ひたちのすけ)として任官しますが、その別れにもう逢えないのではないかと泣き崩れます。よくわかります。

追記: 清見が関は現在の清見寺(せいけんじ)あたりであったようです。江戸時代の興津宿(おきつじゅく)です。残念ながら更級日記の筆者が素晴らしいと言った風景ではありません。清見寺の総門先に東海道線が走りそれを渡って境内に入ります。見どころの多い寺院です。

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追記2: 逢坂の関の風景も史跡のみです。

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逢坂の関源氏物語関屋では空蝉(うつせみ)との再会の場でもある。常陸介となった夫と共に下った空蝉が戻る途中、光源氏石山寺に参詣に向かう途中、この逢坂の関で出会うのである。まだ筆者はその場面を知らないなら、源氏物語を手にして読んだとき、あの美しいところだと思ったことであろう。女性達が夢中になるだけのしかけは物語としてきちんと計算されている。

追記3: 誰が出会って逢坂と名前がついたのか気にかかります。写真を整理していて見つかりました。

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日本書紀』 親功皇后の将軍・武内宿禰(たけうちのすくね)がこの地で忍熊王(おしくまのみこ)とばったり出会ったことに由来とあります。筆者が京に戻った時はまだ関寺は建設途中でした。次に石山寺に向かうときには立派にでき上っていました。

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