えんぴつで書く『奥の細道』から(10)

三山巡礼を終えた芭蕉は鶴岡城下に入ります。鶴岡と云えば藤沢周平さんの小説の世界とつながるのでしょうが、考えてみれば映画やテレビドラマは観ていましたが小説は読んでいないことに気がつきました。先に映像でみてしまって藤沢周平ワールドが固定化してしまっています。原作に触れるともっと細かな機微も見えてくるのかもしれません。

芭蕉はここで庄内藩士・長山重行の屋敷に迎えられ俳諧一巻を巻いています。次に舟で酒田に入ります。ここでは医者の家に逗留します。酒田は北前船の西廻り航路の要港として繁栄を極めていましたので文化や俳諧に通ずる人々も多かったようです。記されてはいませんが当然俳諧の会も催されました。

今も豪商の屋敷などが残されており、明治に建てられたお米の保管倉庫だった山居(さんきょ)倉庫など見どころが多いところですが、私的旅では『土門拳記念館』が目的で他を見学していません。酒田駅からバスで『土門拳記念館』へ行く途中で最上川を渡りました。大きな川でした。

西廻り航路ですが、これを開拓したのが河村瑞賢という人で1672年(寛文12年)のことでその17年後に芭蕉が酒田を訪れているのです。驚くべきにぎわいだったのではないでしょうか。石巻ではにぎわう港の様子を記していますがここでは何も書いていません。さらに石巻では宿を貸してくれる人も無かったとしています。こういう書き方は芭蕉の強調の文学性の特色でしょう。

芭蕉の旅は酒田から象潟へと進みます。芭蕉の気持ちは象潟に飛んでいます。しかし海岸沿いの道はとぎれとぎれで、さらに天候も悪く雨となりますが「雨も奇なり」と次の日に期待します。思っていた通り翌朝にはしっかり晴れて朝の光の中を舟で能因法師が三年閑居したという能因島に舟をつけるのです。そこから西行法師が詠んだ桜の古木が残っている蚶満寺(かんまんじ・かつては干満珠寺)に渡り、ここで松島同様に象潟をほめます。

さらに芭蕉は松島象潟を比較しています。松島では中国の洞庭湖や西湖とくらべても引けを取らない景色とし、美人に例えています。それを受けて記しているのでしょう。「松島は笑ふがごとく、象潟は憾(うら)むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。」松島では句はできませんでしたが象潟では詠みます。

⑧象潟や 雨に西施(せし)がねぶの花 / 汐越や 鶴脛(つるはぎ)ぬれて海凉し

・美しい象潟である。雨の中の合歓(ねむ)の花は有名な中国の美女西施のようである。

・汐越しには鶴がいて、鶴の足が波のしぶきに濡れていて、涼しそうである。

西施は中国の春秋時代、越王の勾践(こうせん)が呉王の夫差を惑わすため送り込んだ愁いをふくんだ美しい女性で、夫差は西施を溺愛し国がは傾むいてしまうのです。松島が笑顔の似合う人であれば、象潟は愁いさが惹きつけられる人ということなのでしょう。

さてその象潟も今は芭蕉さんが眺めた風景とは全く違うのです。1804年(文化元年)の大地震のため、湖底が隆起し一面陸地となってしまったのです。今は水田となり、水田のの中に多くの岩礁が点在し「九十九島」と呼ばれ、違った景観を楽しませてくれているのです。

ここからは『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の黛まどかさんと榎木孝明さんの旅のほうに移動します。

お二人は鶴岡では郷土料理を食します。その中に長山重行が歓待してくれて芭蕉が食したものがありました。民田(みんでん)なすびです。3センチになったら収穫し漬物にするなすびで芭蕉は句を残していました。

現在の象潟の図と画像

芭蕉のころの象潟の図。 能因島から蚶満寺(かんまんじ)へ。

現在の能因島

すべての島に名前がついていて、今はお散歩マップを手に散策できるようです。ここで黛さんは榎木さんの指導のもと苦手なスケッチを試みられました。的確なアドバイスで素敵な絵ができあがりました。旅の記録として俳句とかスケッチはよく観察するため、その時の風を五感で感じており深く残るそうです。

象潟は歌枕の地であり、芭蕉さんは存分に古の人々の世界に浸ったことでしょう。それらすべてを鳥海山は知っているわけです。そんな鳥海山をお二人は絵の中に描かれていました。

追記: 文楽の吉田蓑助さんが今月の国立文楽劇場公演での引退を発表されました。DVD『人形浄瑠璃文楽 名場面選集 ー国立文楽劇場の30年ー』を鑑賞しましたが、何体の人形に命を吹き込まれたのでしょうか。観客と同様に感謝している人形が静かにみつめていることでしょう。これからも文楽のためにアドバイスをお願いいたします。

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