井原西鶴作品と映画『西鶴一代女』(2)

映画『西鶴一代女』では、田中絹代さんが、お化粧もはげ落ちた老醜をさらす夜鷹の演技で評判になったようです。井原西鶴の『好色一代女』では最初の恋から65歳までということになっています。

映画では最初の恋が悲惨なことになり主人公お春ではどうすることもできないその後の人生が続くのです。夜鷹にまでなってしまったお春はお寺の羅漢堂に入っていきます。その中に一人の男に似ている仏像を見つけます。そこからお春のこれまでに至る人生が描かれていきます。

御所勤めをしていたお春は公家の家来の若侍に恋焦がれら拒んでいたお春(田中絹代)も心を許します。その場を町役人にとがめられ身分違いの密通とされてしまうのです。お春と両親は所払いとなり、相手の勝之助(三船敏郎)は斬首という刑罰です。勝之助の最後の言葉が、好きな人と幸せになってくださいでした。恋愛というものが社会の仕組みからはじかれていた時代です。ところが女性の肉体が売り買いされ、子供を産むという道具にされていた時代でもあります。

お春はある殿様の世継ぎのために側室となります。世継ぎも産み安泰化と思いきや、殿様がお春を寵愛し体調を崩され里へ返されるのです。世継ぎの母にふさわしいお手当もありません。

父はその間に商売を考え借金をしていました。そのためお春は遊郭の太夫となります。お大尽がお春を身請けしたいといいますが、持っていたお金は贋金。御用となってしまいます。

お春は次に商家の笹屋に奉公にでますがそこの女房に嫉妬されまたまた里帰りです。

実家に出入りしていた真面目で働き者の扇屋の弥吉(宇野重吉)にこわれ嫁ぎます。今度こそ幸せになれるはずでした。ところが弥吉は物取りに殺されてしまいます。これでもかという追い打ちでお春ではどうすることもできない流れなのです。

お寺に入りますが誤解が生じお寺から去ることになります。そこへ笹屋の使用人が店のお金を持ち出し一緒に逃げてくれと言われ、行くところのないお春は共に逃げますがつかまってしまいます。

お春は三味線を弾いての物乞いとなっていました。夜鷹の女性たちが弱ったお春をみかねて自分たちの住処に連れていってくれ、どうせなら働いてみたらといわれ、夜鷹にでます。そして羅漢堂で、勝之助に似た仏像に出会うのです。そこでお春は倒れてしまいます。

母がお春を探していて訪ね当て告げます。お春の生んだ若様が父の死によって当主となり、その生みの母親をないがしろにしておくわけにいかなくなり迎えがくるというのです。子供のそばで暮らせるというこの上ない喜び。ところがお春の今の姿から若殿に一目会わせるがそのあとは別の場所で謹慎させるというのです。どちらが理不尽で勝手なのか。お春は自分の前を進む息子の姿をみつめます。抑えきれずに追いかけますがさえぎられます。そしてお春は逃げます。

お春は一人巡礼の旅に出ていました。彼女の意思に関係なく彼女の人生は翻弄されてしまいました。

西鶴一代女』とされていますが、西鶴の『好色一代女』のほうが自分の気に食わないことには肘鉄をくらわしています。そのことがさらに生き方を難しくさせるのですがそこらへんが違います。

田中絹代さんは、日本での女性映画監督の二番目ということで、最初の女性映画監督は坂根田鶴子さんです。この方も溝口健二監督のもとで仕事をされていた方です。田中絹代監督の『月は上りぬ』(1955年)をみたのですが、小津安二郎監督の映画なのと思わせられて驚いたのですが、小津安二郎監督が後押ししていたのです。『乳房よ永遠なれ』(1955年・脚本・田中澄江))は、乳がんを患い、生活との闘いの中で短歌を作り、女性の性に対してもぶつかっていき亡くなられた中城ふみ子さんの生き方を映画化したものです。田中絹代さんは女優として仕事をしていて、女性を描く映画を自分の手で作りたいとおもわれていたのです。田中絹代さんもやはり時代の中で闘われていた方なのです。

DVD『西鶴一代女』のパッケージの写真です。髪型と衣装なども興味深いです。

追記: 西鶴さんは『好色五人女』『好色一代女』(1686年)を出版し、『好色五人女』の三巻目「おさん茂兵衛」を浄瑠璃『大経師昔暦』(1715年)にしたのが近松門左衛門さんです。そして四世鶴屋南北さんは『桜姫東文章』(1871年)で因果応報、輪廻転生の世界を加えて桜姫をつくりあげました。桜姫は愛欲をきっちり清算して再生するのです。そのためには時間が必要で新たな物語の誕生でもありました。そして近代的解釈が加わっていきます。

追記2: 歌舞伎座4月歌舞伎『桜姫東文章 上の巻』と大阪国立文楽劇場の第三部『傾城阿波の鳴門』『小鍛冶』の有料動画配信を観ました。観れなかった作品が観れるのと、何回か見直せるのはいいのですが、パソコンの映像の鑑賞はなじむのに時間がかかりそうです。見方をかえてまた鑑賞します。

追記3: 少し長くなりますが、山内静夫さんの著書『松竹大船撮影所覚え書 小津安二郎監督との日々』で映画『月は上りぬ』について書かれてありましたので記しておきます。

 昭和29年、日活が映画製作を再開。五社(松竹、東宝、大映、東映、新東宝)は、非協力、日活ボイコットの姿勢を打ち出す。同じ頃、女優田中絹代の日活での監督ばなしが進んでいて、その題材として、小津先生が、戦後第一作の『長屋紳士録』の後に書いたシナリオ『月は上りぬ』を取り上げることになった。日本映画監督協会(理事長・溝口健二)は、五社の日活ボイコットに反撥していた。

田中絹代の監督作品を支援するべく、監督協会が製作者となり、小津先生はそのことで先頭に立って奔走した。立場を鮮明にさせるために、松竹との契約をその年度は行わず、フリーになった。松竹の高橋貞二を使おうとしたが、高橋貞二と松竹との契約内容を見て断念した。高橋は泣いて口惜しがったが、先生は筋目を通して、高橋を説得した。

月は上りぬ』は、その年の十二月に完成した。監督二作目の田中絹代にとって、どれ程心強いバックアップであったか、想像に難くない。

小津監督の一面を知る貴重な資料となりました。山内静夫さんは映画プロデューサーで里見弴さんの四男です。( 里見弴原作の小津監督作品 『彼岸花』『秋日和』) 

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