2021年8月15日(1)

第二次世界大戦により1945年8月6日は広島に原爆が落とされた日、8月9日は長崎に原爆が落とされた日、8月15日は終戦の日です。忘れてならないのは6月23日の沖縄慰霊の日です。

8月になると特別番組が放送されますが、映画『この子を残して』、『爆心 長崎の空』を観た後でしたので『NHKスペシャル 原爆初動調査 隠された真実』はやはり隠されていたのかとやるせなくなりました。

1945年9月にアメリカから広島、長崎に初動調査団が入り長崎で撮影された被爆直後の映像が公開されたのです。調査された1945年9月から12月までの海軍報告書はトップシークレットでした。

原爆開発計画「マンハッタン計画」の総責任者・アメリカ陸軍・グローブス少将は調査の総責任者でもあり、調査団が出発するとき、残留放射線量が高くないことを証明しろと伝えていたのです。最初から隠ぺいするつもりでした。

原爆は爆発する瞬間、初期放射線放出をします。そして残留放射線というのは2種類あって ①爆心地の土壌などが中性子を吸収し放射線物質となり放出するケース ②爆発で発生した放射線物質が雨やチリで降り注ぎ地上に残り続けるケースです。②が「黒い雨」です。

グローブスの報告書には、残留放射線は完全に否定されていました。

「爆発後、有害量の残留放射線が存在した事実はない。人々が苦しんでいるのは爆発直後の放射能のためであり、残留放射線によるものではない。」 グローブスは原爆を開発した物理学者・オッペンハイマーの理論を採用しました。

物理学者・オッペンハイマーは、「広島、長崎では残留放射線は発生しない。原爆は約600メートルという高い位置で爆発したため、放射性物質は成層圏まで到達、地上に落ちてくるのは極めて少ない。」とし、それに合わせて報告書がつくられアメリカの公式見解となったのです。

グローブスは1945年11月28日のアメリカの原子力委員会で証言しています。

「残留放射線は皆無です。皆無と断言できます。」「この問題はひと握りの日本国民が放射線被害に遭うか、それともその10倍ものアメリカ人の命を救うかという問題であると私は思います。これに関しては私はためらいなくアメリカ人を救う方を選びます。」

ソ連との冷戦もあって人道的よりも核開発でアメリカがリードするほうを選んだのです。

実際には、長崎の西山地区を調査した資料もありました。西山地区には爆心地よりも高い残留放射線が認められたのです。一般人の年間線量の限度を4日で越える値でした。

アメリカは西山地区の人々を観察し、聞き取り調査もし写真も撮っていました。西山地区は爆心地から山を隔てた地域なのですがその日雨が降っていました。赤みがかった黒色で異物が混じった大粒の雨で、排水管がつまるほどで貯水池の水は苦みがあり1週間ほど飲めなかったと語られています。谷間となっているため放射線物質が堆積したとかんがえられます。

血液検査もしていて2か月後には白血球が正常値を越えており、放射性物質が体内に入り起きた可能性が高いのです。

西山地区の土も持ち帰っていて放射線物質の種類も見つかっていました。しかしそれらの調査報告は日本に知らされることはありませんでした。

当時、東大の都筑(つづき)正男教授は残留放射線に目をむけていました。広島で原爆にあっていなくても手伝いで来た人が数日以内で亡くなっている人もいたのです。入市被爆です。

日本の陸軍の報告書にも人心がパニックになるのをおそれて人体に影響を与えるほどの放射線は測定できなかったとしています。

都筑正男教授のくやしさをあらわすインタビューが残っていました。

「問題は政治が先か人道が先かということであって、結局は人道が政治に押し切られてしまった。広島、長崎には何万という被爆者がいるんだと。毎日何人も死んでいるんだと。その人々を助ける方法があり、研究もでき発表もできるにもかかわらず、占領軍の命令によってそれを禁止して、この人々を見殺しにするのは何事か。」

アメリカは4年間で長崎で900か所、広島で100か所で調査していたです。

隠ぺいするための調査。初めから結論ありきで、人道など無視です。その調査でどれだけの苦しみが救われたことでしょうか。不安だけが膨れ上がり亡くなられた方。長い長いつらい闘病を強いられた方。疎まれて傷ついた方。原爆も戦争もこの世にせっかく生まれてきた命を勝手に奪うのです。どんなときも政治よりも人道を優先する道を選んでほしいものです。

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