最澄への私感(1)

桓武天皇は奈良の仏教が堕落しているとして、長岡京に遷都します。孝謙天皇と道鏡のこともあったからでしょう。仏教が朝廷に深入りすることを嫌ったのです。ですから、奈良仏教寺院の長岡京への移転は禁止しました。

ところが長岡京遷都の立役者・藤原種継が殺され、十年で長岡京は廃されることとなり、次の候補地が今の京都となり平安京がつくられます。

そんな時代の流れの中で最澄は仏教はどうなるのであろうと思ったでしょうが、もう一度『法華経』を学び直そうと比叡山に籠るのです。最澄は中国の天台大師・智顗(ちぎ)が中心に据える『法華経』精神を探求します。

桓武天皇は遷都と蝦夷征伐に力を入れますが、それが上手く行かず、さらに同母弟・早良(さわら)皇太子に死を命じ自分の息子を皇太子にします。ところがその安殿(あて)皇太子(後の平城天皇)が病気がちで桓武天皇の心配はつきません。

そうした流れの中で道鏡を退けた和気清麻呂を通じて桓武天皇は最澄に注目するようになり、最澄の草庵が補助金をたまわります。

高雄山寺(神護寺)で最澄は一流のお坊さんに天台仏教を講義し評判となります。

桓武天皇は新しい政治をと想い、奈良仏教とは違う最澄の天台教学に新しい仏教としてとらえたのでしょう。

最澄は入唐を願い、還学生(げんがくしょう)となります。一年間で帰国します。唐では天台は衰えつつあり、密教が流行していました。最澄は志を貫き天台をしっかり学び、密教も少し学んできました。

最澄が帰国すると桓武天皇は病気が重くなっており、祈祷祈願が求められました。

最澄は密教を高雄山寺で広め、僧たちに灌頂しました。桓武の死の間際に天台は国教宗教として認められ、年分度(ねんぶんど)という毎年二人の僧を出家させる権利が認められました。一人は止観業(しかんごう)・天台止観の瞑想の行、一人は遮那業(しゃなごう)・密教を学ぶというかたちにしました。天台の思弁的体系と純粋な修行法だけでは満たせなく広く布教するためには密教の祈祷仏教も必要と考えたのでしょう。

しかし、最澄の加持祈禱は桓武天皇を病から救うことはできませんでした。最澄はまた比叡山にこもります。

同じに留学生(るがくしょう)として入唐した空海は、流行の密教を学び多くの経典、曼荼羅、法具らを持ち帰ります。

最澄は空海から密教を学びたいと思い、空海を神護寺に連れていきます。そして空海から灌頂さえも受けるのです。密教に関しては空海が自分よりも上であるということを素直に認めていたのです。真摯に学びますが、相手から見ればしつこいとおもうだろうなと思わせるほどです。最澄は仏教の根本の幹を太くしておくにこしたことはないと学ぶのですが、空海にしてみれば、自分が唐で学んできた最新の流行りの教えである密教を、そこまでもっていってしまうのかという想いがあったでしょう。そこから二人の亀裂ははじまります。

さらにそこに最澄が自分の後継者にともおもっていた弟子の泰範が空海の弟子となってしまうのですから最澄はがっくりしてしまいます。空海は接した人を魅了するところがあったようです。ただその後、泰範の名が出ることはなくどうなったかわからないのだそうです。

比叡山は、毎年二人の僧を出家させる権利が認められましたが12年間修業しても正式な僧の資格をもらうには東大寺戒壇院でしか受けられません。東大寺に行くと、なにかと奈良仏教への誘いを受け半数が比叡山に戻てくるかどうかの状態でした。

そのため最澄は比叡山でも授戒できるように朝廷にねがいでたのです。嵯峨天皇の時代でした。奈良仏教はこれにこぞって反対でした。最澄は認められないと、自分の文が説明不足なのだとまた書き足して提出します。それでもまただめならまた書き足すのです。このあたりも最澄さんらしいところで、生真面目で、言葉をかえるとしつこいですし粘りづよいです。間に立った人も嵯峨天皇もむげにはできず扱いに困ったとおもいます。

上の座像図をみても、拍子抜けするほど穏やかな優しいお顔です。闘ってきたとは思えないお顔です。声を荒げることのない方だったようです。ですから、弟子の泰範に対する手紙も怒るのではなく懇願する感じでもどってきなさいと書いています。

(この像図は「聖徳太子及び天台高僧像十種のうちの最澄図」で聖徳太子が『法華経』を根本経典としていたことを今回のトーハク展示で知りました。)

そして、最澄の死後それは認められるわけです。

弟子たちもねばり強いです。最澄が学び足りなかった密教は空海から教えを拒まれましたが、最澄の死後、弟子の円仁、円珍が唐に行き学びます。ただその頃中国では仏教は衰退していて学ぶのは大変だったらしいです。そして天台も空海の密教と並ぶものになったのです。

さらに源信によって比叡山、とくに横川は浄土教のメッカとなり、法然、親鸞のごとき浄土教の僧を生みます。

禅もまた天台で行われる止観業と深い関係をもち天台智顗の止観業が中国禅と深い関係をもっているのだそうです。比叡山から入唐した栄西、道元につながるのでしょう。

日蓮は、天台仏教の根拠地のはずの叡山が密教や浄土教や禅によって占拠されてしまったのを嘆いて、『法華経』にかえれと叫んで、智顗、最澄の延長線上なんだそうです。

『ひろさちやの感動するお経 第1~8巻』のCDがあり聞いたのですが、その時はわかったような気にさせられますが、やはりわかりません。下手に触れるともっと混乱しますのでお経などははぶいて極簡略に自分用にまとめてみました。

2021年8月15日(1)

第二次世界大戦により1945年8月6日は広島に原爆が落とされた日、8月9日は長崎に原爆が落とされた日、8月15日は終戦の日です。忘れてならないのは6月23日の沖縄慰霊の日です。

8月になると特別番組が放送されますが、映画『この子を残して』、『爆心 長崎の空』を観た後でしたので『NHKスペシャル 原爆初動調査 隠された真実』はやはり隠されていたのかとやるせなくなりました。

1945年9月にアメリカから広島、長崎に初動調査団が入り長崎で撮影された被爆直後の映像が公開されたのです。調査された1945年9月から12月までの海軍報告書はトップシークレットでした。

原爆開発計画「マンハッタン計画」の総責任者・アメリカ陸軍・グローブス少将は調査の総責任者でもあり、調査団が出発するとき、残留放射線量が高くないことを証明しろと伝えていたのです。最初から隠ぺいするつもりでした。

原爆は爆発する瞬間、初期放射線放出をします。そして残留放射線というのは2種類あって ①爆心地の土壌などが中性子を吸収し放射線物質となり放出するケース ②爆発で発生した放射線物質が雨やチリで降り注ぎ地上に残り続けるケースです。②が「黒い雨」です。

グローブスの報告書には、残留放射線は完全に否定されていました。

「爆発後、有害量の残留放射線が存在した事実はない。人々が苦しんでいるのは爆発直後の放射能のためであり、残留放射線によるものではない。」 グローブスは原爆を開発した物理学者・オッペンハイマーの理論を採用しました。

物理学者・オッペンハイマーは、「広島、長崎では残留放射線は発生しない。原爆は約600メートルという高い位置で爆発したため、放射性物質は成層圏まで到達、地上に落ちてくるのは極めて少ない。」とし、それに合わせて報告書がつくられアメリカの公式見解となったのです。

グローブスは1945年11月28日のアメリカの原子力委員会で証言しています。

「残留放射線は皆無です。皆無と断言できます。」「この問題はひと握りの日本国民が放射線被害に遭うか、それともその10倍ものアメリカ人の命を救うかという問題であると私は思います。これに関しては私はためらいなくアメリカ人を救う方を選びます。」

ソ連との冷戦もあって人道的よりも核開発でアメリカがリードするほうを選んだのです。

実際には、長崎の西山地区を調査した資料もありました。西山地区には爆心地よりも高い残留放射線が認められたのです。一般人の年間線量の限度を4日で越える値でした。

アメリカは西山地区の人々を観察し、聞き取り調査もし写真も撮っていました。西山地区は爆心地から山を隔てた地域なのですがその日雨が降っていました。赤みがかった黒色で異物が混じった大粒の雨で、排水管がつまるほどで貯水池の水は苦みがあり1週間ほど飲めなかったと語られています。谷間となっているため放射線物質が堆積したとかんがえられます。

血液検査もしていて2か月後には白血球が正常値を越えており、放射性物質が体内に入り起きた可能性が高いのです。

西山地区の土も持ち帰っていて放射線物質の種類も見つかっていました。しかしそれらの調査報告は日本に知らされることはありませんでした。

当時、東大の都筑(つづき)正男教授は残留放射線に目をむけていました。広島で原爆にあっていなくても手伝いで来た人が数日以内で亡くなっている人もいたのです。入市被爆です。

日本の陸軍の報告書にも人心がパニックになるのをおそれて人体に影響を与えるほどの放射線は測定できなかったとしています。

都筑正男教授のくやしさをあらわすインタビューが残っていました。

「問題は政治が先か人道が先かということであって、結局は人道が政治に押し切られてしまった。広島、長崎には何万という被爆者がいるんだと。毎日何人も死んでいるんだと。その人々を助ける方法があり、研究もでき発表もできるにもかかわらず、占領軍の命令によってそれを禁止して、この人々を見殺しにするのは何事か。」

アメリカは4年間で長崎で900か所、広島で100か所で調査していたです。

隠ぺいするための調査。初めから結論ありきで、人道など無視です。その調査でどれだけの苦しみが救われたことでしょうか。不安だけが膨れ上がり亡くなられた方。長い長いつらい闘病を強いられた方。疎まれて傷ついた方。原爆も戦争もこの世にせっかく生まれてきた命を勝手に奪うのです。どんなときも政治よりも人道を優先する道を選んでほしいものです。

陛下の研究者としての理論性

2019年に学習院大学資料館で『華ひらく皇室文化 ー明治宮廷を彩る技と美ー』で「ミュージアム・レター No.40」を手にしました。

そこに親王であられた現天皇陛下が一文<「華ひらく皇室文化展」に寄せてーボンボニエールの思い出ー>を寄せられています。素敵な内容なのです。

「ボンボニエールとは、明治中期頃から、皇室での慶事の際に引き出物として配られてきた小型の菓子器のこと」と説明されます。

「私が、ボンボニエールを初めて知ったのは、4歳の時の「着袴の儀」であったように記憶している。皇室では、4歳になると袴を着ける儀式を行う。民間でいうと七五三に当たる。儀式は碁盤の上から飛び降りることによって終了するが、私は、直前の行われた東京オリンピックの体操競技をみていたためか、体操選手のように手を挙げて着地したように思う。その時に作られたものは、銀製で碁盤の形をしていた。」

ボンボニエールに入っていた甘い金平糖の味と「袴の儀」の着地の思い出から次のように続きます。

「碁盤型のボンボニエールを考えてくれた両親に感謝している。」

そして視点は研究者としての探求心に移ります。

「ここ10年ほど、私は、「西園寺家文書」の中でも、鎌倉時代の西園寺家の当主が乗った牛車の絵図について共同研究を行っているが、史料館には、牛車形をしたボンボニエールもあると知り、驚いた。」

思い出から一転、ご自分の研究にも触れられ、展示を鑑賞する者への楽しみ方まで教えてくださっています。

「私も、客員研究員としては最後となる今回の展示を、史料館で過ごした日々を思い返しながら、心ゆくまで鑑賞したいとおもっている。」

ご自分の思い出からボンボニエールに親しみを持たせ、研究者としての視点を示し、鑑賞する人と共にご自分も楽しみたいとされる姿勢は、国民と共に歩まれるとする陛下の心を感じます。

ボンボニエールに対してと同じように、新型コロナの感染下におけるオリンピック開催に対しても、陛下の肌感覚と研究者としての視点と理論性は、大きく国民をとらえられて考察をされていることは十分に想像できるのです。

一方、知性のみじんも感じられない「安心、安全」のむなしさと責任感のみじんも無い言葉の繰り返しがただ落ち葉のように散っています。どこに視線があるのでしょうか。

・ボンボニエールのポストカード