ロジャー・コーマン監督とマーティン・スコセッシ監督(4)

ひょんなことからマーティン・スコセッシ監督の作品に行きあたり、ひょんなことからロジャー・コーマン監督がプロデュースする映画『明日に処刑を...』をマーティン・スコセッシ監督が撮ったということを知りました。

そのひょんなことというのは、マリリン・モンローの映画『ノックは無用』(1952年)を観て、題名が『ドアをノックするのは誰?』(1967年)という映画があるのを知り、どんな映画なのかと行きついたのがマーティン・スコセッシ監督の初期の映画です。そして映画『ミーン・ストリート』(1973年)につながりました。この二つの間に映画『明日に処刑を...』(1972年)が入っているのです。

全然違うところからの出発だったのですが、ロジャー・コーマン監督とマーティン・スコセッシ監督との関係が出てきましたので続けることにしました。

マリリン・モンローの『ノックは無用』には驚きました。その演技力に。その前にイブ・モンタンと共演の『恋をしましょう』(1960年)を期待して観たのですが、ここに至ってまで踊り子の可愛い女を演じさせられていて気の毒でした。プロですね。歌と踊りではしっかり魅了させてくれます。『ノックは無用』はもっと前の作品ですから同じタイプの女性かなと期待しませんでしたら、サスペンスで彼女が次第に異常さを増していくのです。今まで観たことのないマリリンでした。その変化の凄さに、この人の演技力をもっとわかってあげれる環境があればよかったのにと思いました。

ドアをノックするのは誰?』は、なんだかよくわかりませんでしたがこういうことなのかなと思いました。

若者が仲間うちでお互いの通じる世界の中で楽しんでいます。主人公はフェリーで一人の女性と知り合います。お互い好きになりますが女性の過去の出来事を告白され彼女を責めます。それは自分が招いたことだとして、許すから結婚しようといいます。女性は許すということはお互いにずーっとそのことにこだわり続けるわけでそれでは充分ではないといいます。主人公は彼女が求める人間性をつちかっていない自分にも怒りを感じます。教会に行き自分の気持ちを整理します。

そうなのであろうとの解釈です。ハーベイ・カイテルのデビュー作で彼の若い頃の演技を見ているだけで愉しかったです。若者たちのふざける場面のカメラの回し方。フェリーの待合室で出会う主人公の彼女への話しかけ方。二人が屋根上を行ったり来たりして過ごすデート。その切り替えての次の場面。その時間的スピード感が上手くいって先の見えない不安を抱えつつの明日話し合おうというラストも印象的です。明日も変わらないのでしょう。

この映画の脚本は、マーティン・スコセッシ監督がニュヨーク大学映画学科の卒業作品として書いたもので10分ほどの作品に4年かけて『ドアをノックするのは誰?』に作り上げた作品です。主人公はマーティン・スコセッシ監督がモデルで、他の登場人物もモデルがあるとのことです。スコセッシ監督は自分が過ごした街の様子を描きたかったようです。

俳優を広告募集し、その中にハーベイ・カイテルがいて彼は裁判所の速記者をしつつ演技を勉強していてダントツに上手かったようで主人公役となります。

この最初の短編は賞もとり一部の人には評判がよく、さらに劇場公開を目指して女性を加え、主人公の恋愛を入れてストーリー性をもたせます。その当時のアメリカは倫理規定が崩れ自由な表現を求めていて公開用にするなら裸がなくては駄目だとの意見があり、唐突に主人公と女性の登場人物とは関係のない女性との絡みの場面が入ってきます。主人公の妄想の場面ということなのでしょう。スコセッシ監督の絡みの撮り方はねちねちさがないのがいいです。

この映画の続きとして『ミーン・ストリート』となります。スコセッシ監督が撮りたかった自分と自分の育った街の人々が描かれています。

スコセッシ監督が自分も映画を作れると希望を与えてくれたのがジョン・カサヴェテス監督の映画『アメリカの影』です。この『アメリカの影』を一番最後に観てスコセッシ監督のその想いが納得できました。

映画『明日に処刑を...』を撮っていた頃、すでに『ミーン・ストリート』のことは頭にあったと思います。

スコセッシ監督は、ロジャー・コーマンから撮影のイロハを教わったといいます。

「週6日で24日間の撮影期間、朝6時から夜10時まで撮影。構図を考えリハーサルしろ。難しいシーンを最初に撮れ。B級映画を撮りきったのは重要なことだと考えた。仕事のコツがわかった。」

「ロジャー・コーマンからは計画性と規律をもって撮影することを学んだ。『ハネムーン・キラーズ』の時みたいに上手くいかず、首になることもなかった。『ウッドストック』では編集さえ完成しなかった。」

「ロジャー・コーマンによって、一つにまとまり監督としての段取りをつかめた。」

ドアをノックするのは誰?』は資金面のこともありますが、4年もかかっていますから。

ただ友人たちはあ然として、散々いわれたらしいです。カサヴェテス監督からは、最初の長編のような映画を撮れ、君は何をしていたんだといわれ、出演者への愛があるね、でもこんなの低俗だだろ?と付け加えられたようです。

映画『明日に処刑を...』はいわゆるギャング映画です。映画『俺たちに明日はない』を思い出させます。初めに<この物語はバーサ・トンプソンの実話に基づいています>とクレジットされますが、実際にはバーサ・トンプソンは実在しなかったいうはなしもあります。

1930年代、バーサは飛行機を操縦する父親を農薬散布の仕事中に亡くします。彼女は貨車に乗り町に出ます。そこで鉄道会社の労働組合員であるがビルに出会います。労組員は弾圧を受け、バーサとビルとその仲間4人はギャングに変貌します。バーサ以外は何回か捕まりますが刑務所から脱出し逃げ回りつつお金を奪います。そして最後はバーサの前でビルは貨車にハリツケにされ虐殺されてしまいます。必死で貨車を追うバーサ。

カサヴェテス監督が言った「出演者への愛がある」の言葉どおり、4人のギャングには不快感はありませんが暴力が暴力を生んでいくといった構図の中で行き場を失うという結果です。

スコセッシ監督が経験していないロケ現場でもあり、狭い街のさらなる狭い範囲の設定とは違い学んだものは沢山あったとおもいます。そして次に映画『ミーン・ストリート』が出来上がっていくのです。

スコセッシ監督は学びつつも自分の心に温めていたテーマは貫くのです。

ロジャー・コーマン流で新人たちの才能が開花していったのは興味深いことです。新人たちもロジャー・コーマンから学びつつ自分の手法を見つけ出していくたくましさがあったわけです。

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