幕末の先人たち(2)

佐久間象山さんを認識したのは信州松代の観光パンフレットからです。どうも幕末に活躍した人らしい。「高義亭」は松代藩家老の下屋敷にあった建物で、二階には高杉晋作など幕末の志士と語り合った部屋があります。それ以上はこちらの興味も深まらず「象山記念館」はパスでした。

その後、勝海舟の妹を妻としていて優秀な人なのですが変わっているらしいということで、象山を知るまでに今日まで時間が経ってしまいました。思い立ったら即実行するという人です。それだけに自分の知識力には自信があり、人を見下すところもあったようです。ただ失敗もします。少しの失敗ではないのですがめげません。

象山は松代藩の下士の生まれです。儒学の朱子学を学びます。朱子学は下から上への無条件な服従が絶対的な善とする教えで、支配者にとっては都合の良い教えで、家康以来幕府公認の学問でした。

象山は優秀で藩主・真田幸貫(さなだゆきつら)にも期待され、江戸にも遊学しました。真田家は長男・真田信之が徳川家側につき、上田城から初代松代藩主になって真田家は続いていました。

象山は松代藩にもどってから、食糧不足に飢えている人々のために何もしようとしない役人にかわって藩の御用商人を説得して商人が藩にお米を収めて藩が分配するという方法をとらせるのです。

同じころ「大塩平八郎の乱」がおこります。象山は、自分の心ばかりを正しいと信ずる陽明学派の跳ね上がりだと批判します。大塩平八郎。この人もその行動を知っておきたかった一人です。いい機会です。

儒学には朱子学と陽明学とがありました。陽明学は、下の者が上の者に不満を持った場合それが理にかなっていれば不満や反抗心を持たせた方が理に反しているのだから理にあった正しい姿に戻らなくてはいけない、という考えなのです。上の者に絶対服従ではないのです。意見を言っていいのです。

大塩平八郎は、大阪奉行所の与力をしていました。大阪は天領で幕府の直轄地ですから大阪奉行所は幕府の機関です。徳川家に直接仕えているわけですから幕臣の下っ端ということになります。下っ端といえども藩に仕えているのではありません。あくまで徳川家に仕えているのです。

大塩家が代々徳川家に仕えていることを平八郎は誇りにしていました。そして徳川幕府とは人民を守り善政をおこなうところであると信じていたようです。大塩平八郎は38歳で隠居し養子・格之助が与力となります。隠居の5年前から陽明学の私塾「洗心洞」を開いています。

飢きん打開に対しては格之助を通じて意見書を出していましたが、大阪奉行は困っている人々を救うどころか幕府の命令で大坂の米を江戸に送っていました。新将軍の儀式の費用のためです。跡部奉行は、老中・水野忠邦の実弟でした。ついに大塩平八郎は塾生たちと決起することにします。困っている人々に大商人の蔵から米などを放出させるのです。さらに大阪奉行所を襲い奉行を討つことによって徳川幕府に反省してもらいたいとの望みからでした。平八郎は、徳川幕府が気が付いてくれると信じていたのです。

面白いことに大丸には手を出すなと伝えたようです。平八郎にとって大丸は良識ある商人と認めていたのでしょう。

平八郎は決起と同時に一度はひっこめていた事実を報告書にして幕府に送ります。それは幕閣たちが発起人となって不当にお金を集める闇無尽(やみむじん)の実態でした。そのことを書状にして幕府に送ったのです。どうして大阪で決起したのかを江戸の幕閣たちが「そうであったか、江戸城はなんという腐敗状態なのか」と気が付いてくれるのを願ったのです。

決起はその日のうちに鎮められますが、平八郎と格之助は身を隠します。幕府から何か言ってくることを期待したのです。幕府はそんなことで浄化されるような状態ではありませんでした。平八郎親子は見つかりその場で命をたちます。

平八郎の書状は握りつぶされたのですが、ひょんなことから伊豆の代官所に届けられ、時の代官・江川英龍(ひでたつ)によって書き写されていました。そのことによって後の人が検証できることとなったのです。

握りつぶされたものがどれだけ沢山あることでしようか。どういうことであったのかはそれを検証し後の世の人々の考え方の参考になる重要なものなのですが。

陽明学は考えることだけではなく実行することも必要なこととしています。しかし、老中・松平定信の「寛政の改革」の「寛政異学の禁」で朱子学以外は公には禁止されてしまい陽明学はすたれていくのです。

松代藩主・真田幸貫は松平定信の長男で真田家の養子になった人です。

象山は江戸神田お玉が池に儒学塾を開きます。彼は朱子学です。ただ象山は自分の考えたことは実行に移す人でした。学校を建てて朱子学を中心とした教育に力を入れるべきだ意見書をだしてもいます。象山の場合まだ藩のためであり相手は自分をわかってくれる藩主です。ここらへんが大塩平八郎と違うところでもあります。ただその後、象山は幕府に許可をもらうこともあり、幕府の頭の固さにがっかりします。

幸貫は老中となり幕府の海防係となります。象山は海防係顧問を命じられ、ここから彼の西洋式の砲術の勉強が始まります。蘭学が必要になってきたわけです。象山は渡辺崋山と交際があり、崋山から蘭学を習わなかったことを残念におもいつつ、オランダ語の猛勉強開始です。

高価な蘭書の「百科事書」(現在の400万円)の購入を幸貫は許してくれます。優秀であると同時に弁もたったのでしょう。当然藩の財政から考えて舌打ちしていた人も沢山いたでしょう。

そして実行する人象山です。ガラス器、電気医療器などを作ります。さらに豚の肉を食べることをすすめます。日本人は仏教の教えで動物の肉を食べないのですが象山は自分から食し、それにジャガイモが合うことを知り、藩の農民に養豚とジャガイモの栽培を指導します。あの高野長英がすすめていたことです。色々なことを知り実行にうつします。

その中で大ががりなのが、自分が完成させたオランダ語辞書を出版して売ることを思いつきます。みんな書き写したりして勉強しているのですから、印刷して売れば藩の収入となります。印刷といっても木版刷りです。その企画は幸貫に認められます。資金は自分の知行100石を担保にしたのです。ところが幕府の許可がおりませんでした。

大規模な出版は、その後福沢諭吉が慶應義塾の資金源のために自分の本を出版しています。たしかに上手くいっていれば相当の収入になったことでしょう。

さらに松前藩に依頼されて千葉の姉ヶ崎で青銅の大砲を作り試砲しますが大砲は壊れ失敗します。そんなこともありながら象山は洋式の兵術家として有名になり深川の藩邸で砲術を教えます。その中に幕臣・勝麟太郎(勝海舟)もいたのです。

下図のが深川の松代藩邸で象山の塾があったところです。が平賀源内がエレキテルの実験を行った所で、「初春は平賀源内から」と思い立ったときは佐久間象山にたどりつくとは思ってもいませんでした。

さて、さらに木挽町に洋学の塾をを開くのです。儒教の朱子学塾から洋学の塾になりました。ここに入塾するのが吉田松陰です。さらに「米百俵」の長岡藩の小林寅三郎、坂本龍馬らも加わります。象山は開国論者となっていきます。

下図の11が築地本願寺。14の木挽町5・6丁目に山村座、河原崎、森田座の三座が許可を受けて興行していましたが、江島事件で山村座は廃座。天保の改革により芝居小屋は浅草に移転。その後、木挽町5丁目に象山が開塾するのです。

象山は吉田松陰が外国に行くことに賛成します。ただし密航だったわけで失敗し松陰と象山は投獄されます。その後象山は松代でのちっ居生活となります。この時松代で地震があり、家老・望月主水が下屋敷を貸してくれたのです。そこへ松陰の松下村塾の弟子の高杉晋作が訪れたのです。松陰は「安政の大獄」ですでに処刑されていました。

井伊直弼暗殺のあと吉田松陰をはじめ、高野長英や渡辺崋山らの名誉が回復されますが、象山はちっ居をとかれません。彼を認めてくれた藩主の幸貫はすでに亡くなっていました。松代藩は象山を厄介者と考えていたのです。

象山が9年にわたるの幽閉が許されると他藩から来てほしいと誘いがありますが象山は断ります。松代藩の象山きらいは強く、なにかと足を引っ張られます。そんな時幕府からお声がかかります。朝廷の攘夷派懐柔作戦と開国の必要性を説明してもらうために適任とされたのです。

象山は京で公家や一橋慶喜とも会い過激な攘夷思想を正し公武合体と開国論を述べます。京都は外国を忌み嫌う攘夷派がうろうろしています。象山は京の三条木屋町で一人愛馬にまたがっていたところを襲われ暗殺されてしまいます。また血が流されました。

さらに松代藩は象山の知行・屋敷を没収、佐久間家は断絶します。その後名誉は回復されます。それにしても象山さん松代藩の重臣たちに嫌われたものです。朱子学の通り、藩や幕府の命令には反抗の行動はしませんでした。ただ自分の学んだことに対しては絶対なる自信がありました。それを分からない人に対しては苦々しい態度でのぞんだようで、そのことが災いしたようです。

松代に行くとそこから激しくて行動的な佐久間象山が誕生したとは思えない静かさでした。といっても10年前の旅ですが。長野電鉄屋代線も残っていて松代から須坂に向かったと思います。須坂で散策時間が足りず、再訪しますが。

真田邸(新御殿)。江戸後期松代9代藩主・真田幸教が母のために建てた隠居所。↓

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