幕末の先人たち(4)

勝海舟、福沢諭吉が咸臨丸(かんりんまる)でアメリカへ行ったとき、ジョン・万次郎が同船していました。そうですか。万次郎さんにいきなさいということですか、と好奇心がつのります。

たしか、深川でジョン・万次郎の名前があったような。ありました。小名木川クローバー橋のそば、砂町銀座の近くでした。ここを歩いたときは全然頭にありませんでした。

そろそろ刀から離れましょうかと思っていましたら、ジョン万次郎宅跡(朱丸)の上に刀工左行秀碑(黄色丸)があります。ここは土佐藩の下屋敷があった場所で、刀工左行秀は筑前国(現福岡県)で生まれ江戸で修業し、土佐藩に見込まれ土佐藩城下へ。藩主・山内容堂に従い江戸の土佐藩下屋敷で仕事をすることになりました。実戦用の古刀を重んじた復古調の刀剣は幕末維新期の動乱期に人気があったようです。

では刀と関係のない、漁師で漂流のために人生が一変したジョン万次郎はどうして土佐藩下屋敷で暮らすことになったのでしょうか。

万次郎は土佐の足摺岬(あしずりみさき)の中の浜で生まれました。足摺岬に銅像がありました。その時は観光的感覚でみていて彼の人生を深く知ろうとは思いませんでした。その機会がおとずれてくれました。

万次郎が8歳の時にお父さんが亡くなり、10歳の時には漁船の手伝いをしてわずかな賃金をお母さんに渡し助けていました。14歳の時、中の浜から歩いて4日かかる宇佐ノ浦の船主からスズキ漁に一緒にでてくれないかと使いがきます。漁師仲間の間で万次郎は年が若いのに見込まれていたのでしょう。母の許可もおり宇佐ノ浦にむかいます。

船頭は筆之丞(38歳・後に呼びにくいため伝蔵にする)、伝蔵の弟・重助(28歳)、伝蔵の息子・五右衛門(16歳)、寅右衛門(27歳)、万次郎(14歳)の5人が船に乗り込みました。この船が嵐のために漂流して無人島(鳥島)にたどりつきます。重蔵はこの時足にひどい怪我をしてしまいます。

4か月後アメリカの捕鯨船に助けられます。1841年(天保12年)のことです。「異国船打払令」により、アメリカ船籍の商船モリソン号が日本人漂流民を連れてきて打ち払われる「モリソン号事件」が起こったのが1837年(天保8年)です。

この時、高野長英が「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」で、人民を助けてとどけてくれたのに打ち払うとはなんという国かと世界の人々から人民を大切にしない国としてさげすまられるであろう。」と夢物語として書いたのです。そのことが幕府を批判しているとして捕らえられた原因の一つでした。

福沢諭吉は、後に意見を言い合うことが大切であると新聞を発行したりして討論の重要せいをうったえます。

万次郎たちを助けた捕鯨船の船長ウィリアム・ホイットフィールドはそういう日本の現状を知っていて、このまま航海を続けハワイのホノルルに上陸させて日本へ帰る時期を検討しようと考えました。

この捕鯨船と船長に出会ったことは万次郎たちにとって幸運でした。特に若い漁師見習いの万次郎は、捕鯨船の大きさ、その漁の方法に目を輝かせました。若さもあり新しいことを学ぶ元気がありました。漁師どおし友好的な交流が生まれ、万次郎は、ジョン・万とよばれ言葉も覚えていきます。

ホノルルに着いた万次郎たちは不便の無い生活が保障されましたが、日本の漂流民の無事帰国したという情報はありませんでした。万次郎だけホイットフィールド船長に誘われ、再び捕鯨船に乗ります。

その時、世界地図を見せられ、実際に航海を通じて世界の広さを実感します。長い航海で万次郎派はクジラ捕りの技術を身に着け、アルファベットの文字もつづれるようになります。寺子屋に行ったことがない万次郎はイロハよりもABC26文字のほうが覚えやすく学ぶということが楽しかったのでしょう。

航海のあと船はアメリカに到着し、船長の故郷のマサチューセッツ州フェアヘブンで桶屋にお世話になり、桶の作り方を学びつつ学校に通います。船長には子供が二人あり奥さんは亡くなっていましたが、再婚してスコンティカット・ネックで農園を開いたので、万次郎も農園に合流します。ホイットフィールド船長が捕鯨船に乗っても家族の生活の保障としての農園でした。

この時期、農園の仕事の合間に数学者から数学、測量を習います。万次郎は周囲の人に恵まれました。差別で教会に受け入れてもらえないと、受け入れる教会を探してもくれました。

19歳の時、捕鯨船で一緒だった船員が船長となりそのデービス船長の捕鯨船に乗ります。この航海は多種多様の人種がいるということをしりました。というものの航海中も日本の好いうわさは聞きません。日本にそって北上し日本の漁船と話しますが話が上手く通じませんでした。日本人は外国船にはかかわりたくないのです。

ホノルルに着きました。7年ぶりで寅右衛門と会います。重助は亡くなっていました。伝蔵と五右衛門は日本に送ってもらいましたがやはり無理でもどってきました。

アメリカはゴールド・ラッシュでわいていました。万次郎は22歳。皆で日本へ帰る旅費を作るためサンフランシスコに向かいます。そして蒸気船にも乗りさらに山奥に入り砂金集めをしてお金を得てホノルルへもどりました。こういう独立独歩で突き進むところもありました。

1850年12月17日、寅右衛門はホノルルの生活に慣れ残ることにし、万次郎、伝蔵、五右衛門はホノルル港を立ちました。次の年の1月末には琉球の近くまでやってきました。

琉球政府のある那覇で鹿児島藩の役人の調べを受け鹿児島に送られました。鹿児島藩は幕府の鎖国政策に反対でしたので、万次郎はじきじきに藩主・島津斉彬にお目通りとなりました。斉彬は万次郎を手元に置きたかったのですが、幕府に報告し万次郎たちは長崎奉行所に送られました。そして初めて牢屋となりました。今までが運がよかったと言えるのかもしれません。やっと日本に着いた漂流民はひどい取り調べで自殺する者もいたのです。

今度は幕府から土佐藩で身元調べをするようにとお達しがあり、やっと故郷に近づきました。琉球に着いてから一年半がたっていました。

土佐は進歩的な考えの藩で、藩主・山内容堂で大目付には吉田東洋がいました。吉田東洋は万次郎の話を熱心に聞いてくれました。そこには少年の後藤象二郎がいました。23歳という若い藩主・容堂も耳を傾けました。ついに万次郎は恋しい母にやっと会うことができました。11年がたっていました。

中ノ浜にいたのは数日でした。藩から教授館の教師を命じられたのです。侍となり名前も中浜万次郎となりました。世界を見てきた万次郎は身分制度はわずらわしいものでした。万次郎は賢い人でしたので人と争うことはしませんでした。アメリカでも日本人として差別されました。しかしそれをおかしいと思ってくれる人もいたのです。かえってねたむ人の多いことも知っていたのでしょう。

教授館には後藤象二郎、岩崎弥太郎も通いました。坂本龍馬は郷士(山内一豊前の領主の長曾我部家関係の侍)の身分なので藩の学校には入れませんでした。しかし、友人を通して知識は得ていました。

浦賀にアメリカのペリーがあらわれ、万次郎は幕府に江戸によばれます。老中筆頭は阿部正弘でした。

万次郎は幕府の高官・江川太郎左衛門のもとで働き伊豆韮山(にらやま)で西洋式の帆船や蒸気船づくりに励みました。幕府直参の侍となっています。幕府のために色々な仕事をしますが、幕府も本当に万次郎のことを信用しているわけではなく表舞台に名前が出ることはありませんでした。ある面ではそれが幸いしたかもしれません。表に出ていれば尊皇攘夷派にねらわれたかもしれません。

その後、築地の海軍学校・軍艦教授所の教官となり、新島襄もここで学んでいます。新島は後に函館港からこっそり渡米します。吉田松陰の失敗を考えて函館港を選びました。10年後帰国し、同志社英学校を創立します。

さらに函館奉行の手伝いも命ぜられ、捕鯨事業を計画しますが失敗し、違う足跡を残します。ジャガイモです。やっとジャガイモも収穫にふさわしい土地と巡り合ったようです。

大老・井伊直弼によって「日米修好通商条約」が結ばれます。これは朝廷の許可をもらわなかったので尊皇攘夷派が激怒するのです。さてその批准書の交換ということが必要です。そのための使節団が送り出されたのです。アメリカの軍艦の他に日本の軍艦・咸臨丸が初めて太平洋を横断したのです。咸臨丸に勝海舟と福沢諭吉と中浜万次郎が同船したのです。1860年、33歳のときです。

ところが、勝海舟も福沢諭吉も万次郎のことは記していないのです。咸臨丸には日本近海で難破して保護された艦長・ブルック中尉と水夫たちもアメリカに帰されるために同船していました。そのブルック中尉の日誌にはジョン・万次郎の活躍が記されていました。

どうも身分制度の弊害があったようで、海の上でまでそのつまらぬプライドが見え隠れしていたようです。海は荒れ狂っているのに。ブルック中尉は万次郎を助けることにし、乗組員の采配をし万次郎がそれを伝える役目をしました。そして秩序と規律を調えていったのです。

艦長の勝海舟は船酔いでほとんど船室に引きこもっていました。万次郎はもめごとのないように相当の神経を使っていたとおもいます。海の上での役割分担をはっきりさせるブルック中尉がいてくれたことは幸運でした。しかし、万次郎がこのことを口にすることはありませんでした。ブルック船長の日誌が公開されたのが1961年です。

この時、ウェブスターの辞書を福沢諭吉と万次郎が一冊ずつ購入して帰ります。英語辞書が日本に移入された最初です。

幕府が倒れ万次郎は土佐藩士に召し抱えられます。そして本所砂村にある土佐藩下屋敷を与えられるのです。41歳の時で11年間ほどここに住んだようです。やっと地図の屋敷跡に到達できました。まだ藩は残っていました。その後、廃藩置県を実行したのは西郷隆盛です。福沢諭吉は身分制度や門閥制に反対でしたので藩のなくなることを喜び、西郷隆盛を高く評価しています。

万次郎は新政府の命令で、開成学校(後の東京帝国大学)の教授となります。フランスとロシアの戦争の視察を命じられヨーロッパにも行きますが病気のためロンドンに滞在し、帰りにアメリカに立ち寄りホイットフィールド船長とも会っています。1870年、43歳。

そして万次郎はその後静かな余生を送り1898年、71歳で亡くなります。彼の功績は日本の外からの光で照らされて初めて知らされるのでした。

幕府や新政府は万次郎の語学力や知識を認めていましたが、そのことで外国に日本の内情が漏れるのを警戒していていたのでしょうか。そんな微妙な自分の立場と漁師だったという身分を万次郎はいやというほど感じていたと思います。そのあたりを「板子一枚下は地獄」の漁師魂の胆力があって上手く抑えられたのかもしれません。

身分に頼っている人よりも彼の生き延びてきた道は、自分の力と周囲の人々の力添えだったことをよくわかっていたのでしょう。そういう点でも賢い人でした。彼の夢は捕鯨船で遠洋に乗り出しクジラを追いかけることでしたがかないませんでした。

ながくなってしまいましたが、主に『秘められた歴史の人 ジョン・万次郎』(福林正之・著)を参考にさせてもらいました。さらに1938年に直木賞を受賞した『ジョン万次郎漂流記』(井伏鱒二・著)を読むことができました。

その他『福沢諭吉 子どものための偉人伝』(北康利・著)、『べらんめえ大将 勝海舟』(桜井正信・著)、『アーネスト・サトウ 女王陛下の外交官』(古川薫・著)

追記: 人間は核兵器を持つべきではない。人間は間違いを犯す存在でもあるから。やはりそう思います。

追記2: ロシアの侵攻で戦争は原発があるだけで危ういということに現実感を持ちました。

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