伊能忠敬の歩いた道(1)

日本地図を描かれるために歩いた道ではありません。深川の黒江町の伊能忠敬宅跡より天文屋敷(天文台)までの道です。忠敬さん、家業を譲り引退して改めて勉学のために高橋至時先生に弟子入りします。そして自宅から天文屋敷まで通ったのです。ここを歩いてみたいと思っていて実行しました。

写真を撮りつつ道に迷いつつですので、忠敬さんがどのくらいの時間で歩いたのかはわかりません。さらに忠敬さんは歩幅をかぞえながら歩いてもいましたのでどんな感じだったのか。映画『大河への道』の感じですと、忠敬さんの歩く姿を実際に見た人はかなり奇異に感じたことでしょう。映画で香取市職員の池本さんが大河ドラマの「続武田信玄」のポスターを見て大河ドラマ誘致の発言したのも笑えました。大河の<続>はまだないですね。

隅田川でいうと、永代橋から蔵前橋を渡ったところへの道と言えます。

東京メトロ門前仲町駅から先ず伊能忠敬旧居跡を見つけるのが大変です。方向音痴系でいながら何となくこちらで歩いてしまうのですから。番地をみつつ行きましたがわからず、最後は深川東京モダン館頼みと訪ね、すぐですよと伊能忠敬旧居跡の石碑まで案内していただきました。感謝!感謝!

伊能忠敬旧居跡の石碑。出発です。

渋沢栄一宅跡

福島橋

大島川西支川。先に見えるのが御船橋(みふね)と緑橋。

佐久間象山砲術塾跡

永代通りを渡った向かい側近くに初代段四郎さんのお墓のある正源寺があるのですが、時間の関係上残念ながらあきらめてまずは永代橋に到着。ここまでくれば、後は隅田川沿いで進みます。隅田川テラスを歩けば楽なのですが、探す史跡もあるのでその一本内側の佐賀町河岸通りをたどります。

2が正源寺。3が佐久間象山砲術塾。6が伊能忠敬旧居のあった黒江町。永代橋は1807年(文化4年)に、富岡八幡宮の祭礼に訪れた人々の重さに耐えかねて崩落事故がありました。亡くなった方の数は定かではありませんが1500人ともいわれています。いかに多くの人々が押し掛けたかが想像できます。

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隅田川テラス。

地図上だけでの確認だったのが実際にわかるわけですから見つけるぞと気合が入ります。

早速、赤穂義士休息の地の碑。大高源吾がちくま味噌の初代竹口作兵衛と其角門下で、一同を招き入れ甘酒粥をふるまったとあります。碑を建立したのはちくま味噌16代目さんです。今の若い人は「忠臣蔵」といっても知らないようです。

向い側に古い建物が。

次は非常に頭を悩ませられた下の橋、中の橋、上の橋にいきます。

追記: 歌舞伎オンデマンドの2012年(平成24年)新橋演舞場での『仮名手本忠臣蔵 5段目6段目』が6月14日で配信終了ですので観ておいて欲しいです。特に6段目の上方型を観れるのは貴重です。この時の若手の通し狂言観ていました。思い出しました。10年前でまだまだと思って斜交いに鑑賞していました。特に6段目の勘平は18代目勘三郎さんのが好きでしたので、上方型とは気にかけずに何か地味だことと感じたと思います。今になって東京型(音羽屋型)との比較が出来、配信に感謝です。

追記2: 勘三郎さんの録画なく、同じ2012年の勘九郎さん襲名披露南座顔見世公演で、仁左衛門さんが東京型でされていた録画がありじっくり観させてもらいました。さらに文楽の録画もあり比較の楽しみ三昧です。今月大阪の国立文楽劇場で上演されていますのでそちらも是非観ていただきたいです。ついに17代目勘三郎さんの勘平のDVDも購入してしまいました(音羽屋型)。それぞれに発見があり多種多様の観方ができ、かつての名優の役者さんたちの芸も味わうことができ、どんどん末広がりとなり嬉しきかなでした。

追記3: 2012年に花形歌舞伎通し狂言『仮名手本忠臣蔵』をやっていたからこそ、2020年新型コロナの中、図夢歌舞伎『忠臣蔵』が誕生したのかもしれません。

追記4: 葉室麟さんの『乾山晩愁』を読んでいたら、尾形光琳が赤穂浪士に加担し、討ち入り装束が光琳さんの好みというナゾがからんできておどろきでした。江戸での光琳さんに援助していたのが深川の材木商の冬木屋だそうで、この話はここで止めておきます。先に進まなければなりませんので。それにしても面白し。 

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