平将門の人気

『平の将門』(吉川英治著)を読む。<将門遺事>に次のようにある。

「江戸の神田明神もまた、将門を祠(まつ)ったものである。芝崎縁起に、由来が詳しい。初めて、将門の冤罪(えんざい)を解いて、その神田祭りをいっそう盛大にさせた人は、烏丸大納言光広であった。寛永二年、江戸城へ使いしたとき、その由来をきいて、「将門を、大謀反人とか、魔神とかいっているのは、おかしい事だ、いわれなき妄説である」と、朝廷にも奏して、勅免を仰いだのである。で、神田祭りの大祭を勅免祭りともいったという。」

今年は四年ぶりの神田祭が5月9日から15日までおこなわれる。神田明神の資料館に行けば将門の事も分かるかなと思い出かける。その前に大手町にあるという首塚へも。地下鉄の大手町駅の5番出口から出ると左手すぐに幟と白壁が見える。

説明板によると「酒井家上屋敷跡 江戸時代の寛文年間この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末 伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである」。これは驚きでした。原田甲斐と将門が繋がるとは。将門が戦で命を落としたのは、天慶3年、2月14日、38歳である。将門首塚の碑には次のような説明が。「昔この辺りを芝崎村といって神田山日輪寺や神田明神の社があり傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆は徳治二年(1307年)に真教上人が将門の霊を供養したもので焼損したので復刻し現在に至っている。」

この後、延慶二年(1309年)神田明神のご祭神として祀り、徳川家康が幕府を開き江戸城を拡張する際現在の江戸城から表鬼門にあたる場所に移動し、首塚の碑は大手町にそのまま残ったわけである。神田明神の正式名称は神田神社でご祭神は、だいこく様、えびす様、まさかど様である。

資料館ではー江戸の華 神田祭をしりたいー【大江戸 神田祭展】の特別展を開催していた。そこで面白い説明があった。江戸時代将門の凧が好まれて空に多く舞ったという。朝敵といわれた将門の凧が空を舞ったのは江戸以外ではあまりみられなかったそうだ。もう一つは将門は妙見様を武神として篤く信仰していて将門が彫ったといわれる妙見尊像が奉られていた。妙見様は本体は北斗星・北極星といわれている。それで思い当たることがあった。吉川英治さんの本の解説に劇作家の清水邦夫さんが、将門生存説があり将門には七人の影武者がいてその影武者が将門の身代わりとなり将門は生きのびたとする説で、茨城県のあちらこちらに七騎塚とか七天王とかの塚が残っていて、名古屋あたりにも七人塚があると書かれている。清水さんは将門を戯曲にしていて将門のことを色々調べたらしい。そこで思ったのである。この七という数字は将門の妙見様信仰の七からきているのではないかと。他の数字でもよいであろうが、将門の事をよく知っている身近なところからこの伝説は生まれたようにおもうのである。

歌舞伎の舞踏劇<将門>は、山東京伝の将門の遺児たちの復讐の物語をもとにした芝居の大詰めの踊りで、将門が余りにも呆気なく敗死してしまったことに対する庶民の思い入れもあるような気がする。江戸時代にはもっと人気があったと想像するのだが。

清水さんは東京の近郊の鳩の巣の神社にも将門を祀っていると書いている。奥多摩の鳩の巣渓谷は歩いた事がある。参考にした雑誌を見たらJR青梅線鳩の巣駅の上に将門神社があり、暑い日だったので行くのを止めた記憶が蘇る。今なら無理してでもも行ったであろうが、その時は将門への興味は薄かったのである。将門っ原とありそこは居館跡とある。その雑誌では将門神社の説明が次のように書かれている。

天慶(てんぎょう)の乱をおこした平将門は権力に圧迫されて苦しんでいた民衆に人気を集め、いつしか民衆の英雄として都内のあちこちに将門伝説をのこした。ここ将門神社もその子良門が亡父の像を彫って祀ったといわれる場所。

これからもあちらこちらで将門神社や将門伝説に会うことであろう。

 

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