5月 歌舞伎座 『京鹿子娘二人道成寺』

玉三郎さんと菊之助さんの『京鹿子娘二人道成寺』さらに面白くなっていた。驚くほかはない。踊りのレベルが上がれば工夫も増えるということか。

一人の踊り手がいる。その踊り手は自分の中で二人の踊り手を存在させていてその二人の踊り手を操っている。観ている方は一人の踊り手の内面の二人の踊り手を見せられている。一人の踊り手はなぜ内面の二人の踊り手を見せるのか。踊りに対して自分の中で抑制し合ったり、ここはもう少し逸脱しようかなと思う心の動きを見せても踊りは成り立つからである。一人の踊り手はこちらの表現の方が良いかもしれないと思う。しかし一つしか選べない。二つ選べるとしたら。こうなるのであるが。

さらに表面に出てきた二人の踊り手は踊りつつ会話をしている。花道の出は菊之助さんである。途中花道のスッポンから玉三郎さんが登場。「あなた余り気持ちよさそうに踊りすぎてよ」。「だって楽しい恋だったんですもの」。二人顔を見合わせて「おおいやだふふふ」とでも語りあっていそうである。これはこちら観る側の妄想であるが、ただ美しいとかこの表現力には圧倒されたとかの感動を通り越した面白さである。

烏帽子をつけ「さあしっかりいくわよ」。鐘に対する恨みも「それ以上表すと娘らしさが壊れるわよ」。「烏帽子の取り方も変えましょうね」。

手まり遊びも「ちょっと大きく動きます」。「勝手にどうぞ」。「ここはしっとり踊らせてもらうわ」。

そんな事を一人の踊り手が自分の中で楽しみつつ自問自答しているようでもある。菊之助さんが自分の踊りに手ごたえを感じ始めているのか苦しい自問自答ではない。観ているほうも「え、そうなるんだ」「なるほど思いもよらなかった」「玉三郎さんの色香を菊之助さんが押さえてる」「菊之助さんの恥じらいを玉三郎さんが引き出そうとしている」

「そんなに男を怨んじゃだめよ」。「だってあなた」。「さあ憂さを晴らしましょ」。

長唄の詞に乗り、お囃子連中の音に乗り、身体はあくまでも優雅に、観ているほうの指が、鏡獅子の弥生が獅子頭に動かされるように動いている。

「最期は言いたい想いはきちんと伝えましょうね」。「最期はそれぞれの想いでね」。

さやさやと皐月の風が歌舞伎座を吹き抜けてゆく。

 

 

 

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