歌舞伎座六月 『実盛物語』 『大石最後の一日』

『実盛物語』 浅草公会堂 新春浅草歌舞伎 (第一部)での『義賢最期』に続く話である。木曽義賢の妻・葵御前(梅枝)は義賢の子を身ごもっており臨月である。その葵御前を匿っているのが百姓の九郎助夫婦(家橘・右之助)である。そこへ清盛の男の子が生まれたら殺すようにとの命を受けて、斎藤実盛(菊五郎)と瀬尾十郎(左團次)が検分にくる。九郎夫婦は窮して、孫の太郎吉が琵琶湖で拾ってきた白幡を握りしめていた片腕を、葵御前が産んだと差し出す。実盛は瀬尾を帰るように仕向け、白幡を離さずやむなくその女の片腕を切り落としたことを語る。その女の名は小万。小万は太郎吉の母であった。その片腕の手から白旗を離す時、太郎吉が指を一本、一本伸ばしてやると動くというのも、『三十三間堂棟由来』と同じように子に対しての反応である。その小万(菊之助)の死骸が運ばれてきて、片腕をつけて呼ぶと生き返り皆に別れをいうのである。

葵御前は無事男の子を出産する。瀬尾は戻ってきて、太郎吉に討たれるように自ら仕向ける。実は、小万は瀬尾の娘だったのである。自分を討つ事によって、孫の太郎吉に源氏の家来となれるよう手柄を立てさせたのである。太郎吉は自分は武士になったつもりで、母の敵の実盛を討とうとするが、実盛は、大人になったら討たれてやると約束して去るのである。

「平家物語」を下地としているので、巻の七にある「実盛」では、手塚太郎光盛に討たれるが、この太郎吉が芝居のなかで手塚太郎光盛の名をもらい、実盛の最後の先のほうのことまでを想定してこの芝居は作られている事になる。思慮深い実盛を菊五郎さんは、重くせず晴れやかな別れとして演じられた。その中で、菊之助さんの小万は源氏側としての執念をしめし、息子の太郎吉にその意思を伝える道筋をつくるのである。出は少ないが、『義賢最期』から繋がる小万の心を通す必要性がここにある。

『大石最後の一日』 仇討を終えた内蔵助(幸四郎)の最後の願いは、赤穂浪士が英雄としてではなく<初一念>で奢ることなく最後を向かえる事である。内蔵助は細川家に共にお預けとなっている浪士磯貝十郎左衛門(錦之助)のことが気になっていた。内蔵助の勘は的中し、磯貝と婚約したという娘が男装して小姓となり内蔵助と面談する。娘おみの(孝太郎)は、磯貝のおみのに対する心は本心なのか、それとも大事の前の世間を欺く偽りだったのかを聴きたいという。内蔵助は磯貝が琴の爪を懐に隠し持っていたのを知っていた。内蔵助はおみのに会う事によって、磯貝に迷いの生じることを懸念する。しかし、おみのの覚悟のほどもわかり、磯貝にも世に心残りなく<初一念>で死を向かえさせたく、おみのと磯貝を会わせ本心を伝えさせるのである。ここに至る内蔵助の人をよく見抜く細心さと、大きさを幸四郎さんは腹で演じられた。磯貝の本心を知ったおみよは自害するが、その覚悟のほどを孝太郎さんはしっかり内蔵助と対峙し盛り上げる。磯貝は錦之助さんのはまり役で、迷いとそんな自分にうろたえる戸惑いを乗り越え切腹の場所にすすむ。そして最後の一日の締めくくりとして大石は<初一念>を胸に安堵して花道を去るのである。

一つだけ残念なところがあった。上使の荒木十左衛門(我當)が、切腹を告げる。そして、そっと、吉良家は断絶となったことを告げる。その言葉に幸四郎さんは、声高らかに喜びを表現された。ここは、歌い上げて欲しくなかった。喜びはわかる。内蔵助は押さえ、他の浪士たちの喜びで充分伝わり、内蔵助の心の内はいかほどであろうかと想像するほうが、全体の出来上がりからするとよかったように想う。今回は幸四郎さんは全て受けの深さで通して欲しかった。好みの問題である。

細川家の子息細川内記役の隼人さんがしっかりした科白で 平成25年12月国立劇場 歌舞伎公演 (1) の主税からさらに一歩成長されていた。内蔵助とおみの橋渡し役である彌十郎さんも好演であった。

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