歌舞伎座 八月納涼歌舞伎 雑感

初めて観る演目(『恐怖時代』『信州川中島合戦』)もあり興味深い観劇となった。総体からの印象を書き散らす。

役者さんから云うなら、三津五郎さんの安定感(体力的にもこれからも慎重にされて欲しい)、扇雀さんの観ていなかった演目での活躍がやはり若手の中心力となっている。脇での萬次郎さん、彌十郎さんの抑え。そして、思いがけない発見が、『恐怖時代』の七之助さんの役の面白さと、児太郎さんの片外しの武家の妻役である。七之助さんの感情を表さない部分が今回の役では思いがけない一貫性があった。児太郎さんは、じっくり古典を覚えていって欲しい。この若さで片外しが似合うとは思わなかった。そいうタイプの役者さんなのかもしれない。まだまだ時間はかかるであろうが是非一つの道としてほしい。。

外してならないのが、『たぬき』での七緒八さん。まだ回らない口調での台詞が却って功を奏し、子供が、仮面ライダーや、変身の主人公に成りきるように、役になりきっている。息子によって、<たぬき>は、人間に戻るのである。変身を見抜かれてしまうのである。子供にとっては、そのものなのである。

今回の演目には、二人の小説家の作品が並んだ。谷崎潤一郎さんの『恐怖時代』と大佛次郎さんの『たぬき』である。『恐怖時代』は人間の醜き欲望を、残酷な美しさへと転換する谷崎美学であり、『たぬき』は、『鞍馬天狗』で杉作少年を登場させ、大人も子供も夢中にさせた大佛さんらしい締めくくりの舞台である。

一番話題であったのは、納涼奮闘公演の『怪談地乳房榎』と思うが、勘九郎さんに対し、一つ疑問に思ったことである。下男正助である。笑いの取り方が勘三郎さんのテクニックのみの受け取り方と、私には見えたのである。そのため『恐怖時代』の茶坊主珍斎も構成全体から笑いにはみ出し、作品の登場人物として何か違うように受けてしまった。『やぬき』の太鼓持ちの蝶作。笑いよりも先ず、登場人物の人物を見極めてから自然とその生き方、仕草が笑いに通じることを考えて欲しいと感じた。「えっー!」「えっ~?」で笑いを取るたびに、申し訳ないが<芸>ではなく、<テクニック>として見え、勘九郎さんらしくないと思えたのである。

勘三郎さんは映画の中で、<中村屋は、組織的なお客様がいないのだから、新作をやっていかないとお客様に逃げられるんだよ>と言われていて驚いた。<中村屋>というよりも、歌舞伎がと言い換えるなら納得できる。若いお客さんに勘三郎さんの新しい歌舞伎で親しんでもらって、古典歌舞伎も観てもらいたいとの思い。私の周辺では、勘三郎さんは、今やりたいことをやってそれから古典の比率を増やしてくれると思い待っていたのである。思いはそれぞれだから致し方ないが、勘三郎さんがやり残した古典作品への勘九郎さんへの期待は、観ることが叶わない年代の人々にとっても大きいと思う。

 

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