歌舞伎座 八月納涼歌舞伎 『恐怖時代』 

谷崎潤一郎作『恐怖時代』は、伝説となっている武智歌舞伎の武智鉄二さんの演出で評判をとった演目である。今回、武智さんの名前が出て、『坂東三津五郎・武智鉄二対談 芸十夜』を読み返せたのが収穫である。収穫といっても解ったわけではない。わからないのに最後までワクワクして読み進めたのである。

一例をあげてみる。

武智 「喉の音というのは、おなかに力が入ってて、おなかと喉の間に三尺ほど空間がないといけないんで、そうしないと喉の音づかいはできないですね。つまり力を入れないで、力がこもっているという音ですね。」 これは浄瑠璃の<音づかい>の事の話であるが、こちらは、浄瑠璃の<音>も<節>も解らないが、とても大切な事なのだということはわかる。さらに、歯に当てる音、顎の音の説明がある。そんな音があるのかと驚いてしまう。そして、これが聞き分けられたら違う世界が開けるような気にさせられる。到達できない世界であるが、まだ先にそいう世界があると思うだけで楽しいのである。

八代目三津五郎さんであったからこそ、対談が可能となったのであろう。『恐怖時代』の話も出てきた。 八代目三津五郎さんが、お父さん(七代目三津五郎さん、守田家から養子に入られた)に誰を相手に芝居をしているのかと尋ねると、死んだ人と答えられる。「それはうちの親父(守田勘弥)と、堀越のおじさん(団十郎)と成駒屋のおじさん(芝翫)と、寺島のおじさん(五代目菊五郎)と、この人達が後ろで見てると思ってやってるんだ。そうするとお客なんざァどんなお客だって平気でやれるし、怠けるなんてことはできませんよ」と答えられる。

それを受けて武智さんが言われる。武智「武智歌舞伎のときがそうでしたね。みんな下手なのはわかっているから、とにかく一生懸命やろうということでね。僕が一番それを感じたのは、神戸で「恐怖時代」なんかやったときに、初日は百人くらいしか来てないんだ、広い劇場に。三津五郎「八千代座でしたね。」武智「二日目は半分ぐらい、三日目は満員で、四日目はもう立見ですよ。」

長くなったが、武智歌舞伎『恐怖時代』が評判を呼んだ様子を話されている。

何が恐怖なのか。場所は江戸深川の大名屋敷。大名・春藤采女正(うねめのしょう)の愛妾お銀の方は元芸者であり、家老・春藤靱負(ゆきえ)と女中・梅野と共謀し懐妊している正室の毒殺を企てる。お銀の方にはすでに照千代という一子がいるが、靱負との間にできた子である。照千代に家督を継がせるための計略である。ところがお銀の方には夫婦になる約束をしている相手がいる。小姓の磯貝伊織之助である。

お銀の方は芸者時代からの知り合いの医者・細井玄沢に毒薬を頼み、毒薬を受け取るとその毒薬で女中・梅野を使い玄沢を殺してしまう。正室に毒薬を飲ませる係りには茶坊主・珍斎を選ぶ。珍斎の娘・お由良は、お銀の方一派の企みを知り証拠を掴みたいとおもうが、父の前で殺されてしまう。珍斎は臆病もので、自分の命だけを守る男である。

采女正の家臣二人はお銀の方が春藤家を脅かすとして、采女正に進言するが聞き入れられず、伊織之助によって斬り捨てられる。この時、初めて伊織之助は、姿形とは違う剣の達人の顔を見せる。さらに、主人の采女正が、自分の嗜好にまかせた生き方で残虐性と血を見て喜ぶといった異常な性格である事も露見する。喜ぶ采女正は伊織之助と梅野の真剣勝負をお銀の方の前で命じる。伊織之助に好意を寄せていた梅野は、伊織之助に斬られてしまう。

そこへ正室の毒殺が告げられ、珍斎が引っ立てられる。ほくそ笑むお銀の方。戻った珍斎の腕のなかには照千代の首が抱かれていた。采女正はお銀の裏切りを知ったのである。お銀の方を切り捨てようとする采女正を、伊織之助は「ばかものめが!」と一言いい、采女正を一刀のもとに斬り捨てる。そして、伊織之助はお銀の方に共に差し違えて死のうと告げ、二人は差し違えるのである。

沢山の屍の中から起き上がる人間がいた。自分の命だけ助かることしか考えていなかった珍斎である。

どちらを見ても恐怖の世界である。その中で、美しい小姓の伊織之助は、剣の力によって恋を全うするのである。この恐れる事の無い一貫性が、観るものに摩訶不思議な美しさを見させてくれる。采女正を斬るところなどは、他の人々の怒りをも伊織之助が代弁しているような爽快さである。しかし伊織之助は自分とお銀の方との恋の成就のことしかないのである。悪の中で、別の種類の悪が輝くのである。

その世界にあっての珍斎。もう少し何かが欲しかった。こちらがそれが何であるか解らないもの。それを感じさせて欲しかった。

展開としてはスムーズで意外性もあり、登場人物の役割も解り、采女正が特異な人間としての設定も、異質な芝居として面白かった。

 

谷崎潤一郎作/武智鉄二演出・斎藤雅文演出/お銀の方(扇雀)、磯貝伊織之助(七之助)、茶坊主・珍斎(勘九郎)、細井玄沢(亀蔵)、梅野(萬次郎)、春藤靱負(彌十郎)、春藤采女正(橋之助)、珍斎の娘・お由良(芝のぶ)

 

 

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