映画『ゆずり葉の頃』の涙

ことさらに感動させたり、泣かせるような場面は出て来ないのに、なぜか涙がツーツーと頬を静かに流れる。軽井沢は美しくお洒落である。しかし、ものすごくそれが強調されているわけではない。主人公の一人の女性の眼に映る風景と、接する人々の静かな自然体の佇まいである。

主人公は見たいと思っていた一枚の絵。その絵を戦争で疎開していた軽井沢で会えるかもしれないと、ある画家の展覧会へ出向く。彼女はこの先の自分の生き方を決めようとしている。気負いでも諦念でもない。この今の時間をゆっくりと味わいつつ穏やかな微かな笑みを伴って。周りの人もその笑顔に誘われるように、彼女のペースに合わせて、彼女の楽しめる方向に成り行きを運んでくれ、彼女が満足してくれることに喜びを感じている。そして、疎開中に出会った一人の少年と出会った場所。

主人公役の八千草薫さんはもちろん美しいが、そこには、もっと美しい時間をかけた細いシワもあり、そこがまた人として素敵さがある。

美しく、美しく描こうとはされていない。幼い頃のままで残ってくれていたお寺に、昔の良い思い出だけを確かめにきて、それがやはり自分の芯として支えるに値するものであった事を確信するのである。

戦争中の苦しかったことも、一人で子供を育てたことも、淡々とした言葉で世間話のように語られ、他のひとの台詞で大変な時代であったことが短く伝えられる。そのわずかな個所に、微笑みを讃えてあたりまえのように優しく静かに毅然としている主人公を見ていると、やはり涙となるのである。映しだされなくても当時を感じることは出来る。そのほうが、いかに、今の佇まいが美しいかを思いやることができる。

綺麗な澄んだ池に広がる波紋。その波紋をつくるのが、かつて子供達が口に含んで頬を膨らませた飴玉である。このあたりが、心憎い設定であるが、波紋の移動と撮り方が何んとも言えない自然の摂理である。山下洋輔さんのピアノも、映像を見ている者の空間に心地よく入り、いつの間にか自分の中で音はなくなり、ふっと気がつくと、またもどる。こちらの感情に合わせて耳が動いてくれる。

見方によっては、どこにでもある風景である。しかし、この当たり前の風景がいかに大切であるかがしみじみと切なくもなる。特別ではあるが、当り前でもあるということの深さが身にこたえる。

主人公が特別のことを、当り前のように振る舞い、押しつけないところに、自分の時間で何かを止めようとしているようにも感じられる。この主人公たちから上の年代の方達はきちんと踏みとどまって、今の時代を創造し取り戻したことが伝わる。その少しの喜びを自分で楽しみながら体験し受け取り、自分の身の振り方も自分で決めようとしている。その踏み止まったことを当り前として微笑んでいることに涙したのかもしれない。

映画が終わって入り口を出ると、中監督が、立っておられ観終った観客に挨拶されていた。「良かったです。涙が止まらなくて。」とお伝えしたら、ちかくの男性のかたも同じだったらしく「泣くような場面はないんですがね。」といわれる。「そうなんです。むしろおしゃれな映画ですよね。」白いハンケチで目頭を押さえつつ「岡本喜八監督より上かもしれない。」とも言われていた。中みね子監督の出て来られる観客に挨拶されているその姿は、『江分利満氏の優雅な生活』での、江分利氏の奥さんが、酒飲みのお客を嫌な顔をせず相手をする新珠三千代さんの役と重なっていたが、それ以上の方であった。

ある画家は仲代達矢さんで、その再会もいい。思いがけないことにも主人公は、心をあらわにしないが、自分を支えてくれた芯が自分の想いと同じだったこと、見たかった絵も見ることができ、一人息子に静かに自分の考えを伝える。

主人公は一枚の絵を訪ねるが、映画のなかでは二枚の絵が、主軸となる。その絵も思っていたよりも静かな深さがあり映画を観る者の期待を裏切らなかった。

中みね子監督は、岡本喜八監督とは違う感性の映画を創られた。ゆずり葉は次の葉が出てくると緑のままで落ち、次にゆずるようである。この世代の人々には感嘆である。今はその想いの涙であったような気がする。

映画『ゆずり葉の頃』

 

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