映画『百日紅』『麒麟の翼』から七福神(1)

2013年の1月に日本橋の七福神めぐりをと思ってから3年が経ってしまった。( 推理小説映画の中の橋 

映画(アニメ)『百日紅~Miss HOKUSAI~』は、葛飾北斎の娘のお栄を主人公にしている。

お栄さんは北斎さんの三女で、葛飾応為という絵師である。映画は、文化11年 1814年夏とある。お栄さん23歳の時である。

葛飾北斎さんは本所の生まれで1760年に生まれ1849年に亡くなったとされている。この映画の頃は北斎さん54歳あたりということになる。

ということは、勝小吉さんが、1802年生まれで1850年になくなっているから、本所のどこかであるいは両国橋あたりですれ違っていたかもしれない。ただ、北斎さんは10本の手足の指では足りないほど引っ越しをしていたので本所にずっといたのかどうかはわからないので想像上のことである。この時代の本所は、変わり者の逸材が多く交差していたようである。勝海舟さんは、1823年から1846年まで住んで居る。

『百日紅(さるすべり)』は両国橋を渡ってのお栄さんの登場である。原作は杉浦日向子さんである。杉浦さんの早すぎる死はなんとも残念である。しかし、お栄さんを描いていたとは、さすが杉浦日向子さんである。脚本は丸尾みなさん。監督は、木下恵介監督を描いた映画『はじまりのみち』の原恵一監督である。

お栄さんの人物の絵といい、しゃべり方といい(声は杏さん)お栄像を満喫させてもらった。周囲の人々の描き方も良い。目の不自由な妹のお猶(なお)との交流も絵師としてのほとばしる感性をそっけなく押さえているところが何んとも心憎い。

はじめに< へんちきなじじいがありまして >と父の北斎を紹介するのも、父を鉄蔵と呼び捨てにするのも、絵師葛飾北斎を一番わかっているのはお栄さんなので、かえってすがすがしい。

その彼女に誘われる様に、そうだ両国橋を渡って浜町まで歩き、日本橋の七福神めぐりをしようと思い立ったのである。

赤穂義士が渡らなかった両国橋を渡ることにする。

それから、葛飾北斎さんの生まれた通りは北斎通りと呼ばれ、今年あたりに<すみだ北斎美術館>として開館されるようで愉しみである。

両国橋を渡る前に隅田川ぞいの隅田川テラスを歩くことにして、隅田川テラス入口と表示のあるところから登ってテラスに下りる。蔵前橋方面の川上に進む。

汐によって川の水面が違い、夜歩いたときよりも水面が高いように思える。伊勢湾台風の時には、潮位が+5.02メートルとある。凄いことになっていたのである。

川を遮る手すりには相撲の技が二人の力士により形づくられている。そして、土手側の壁面には北斎さんの絵が描かれている。北斎さんは隅田川両岸の人々の暮らしを多数描いている。

そのほか、赤穂義士が両国橋まえで勢揃いしている絵もある。

両国橋方面に向きを変え両国橋の下から柳橋を見ると、日中は柳橋も灯りがなくおとなしい緑いろの姿である。

お天気もよく暖かなお正月で、隅田川テラス散策も快適である。

テラスから上がり両国橋の前に立つ。反対側には、赤穂義士の大高源吾の句碑と日露戦争の慰霊碑が見える。

両国橋からスカイツリーが見えたのであろうが、お栄さんの映像が頭にあって渡ることに集中し川をながめたりしていた。

渡った側に両国広小路の石碑があった。明暦の大火で橋が無かったために10万余の人が亡くなっている。対岸に行ければ助かったであろうことから武蔵国と下総国の二国をつなぐ橋として両国橋はかけられる。上野、浅草と並ぶ江戸三大広小路で、盛り場であったが今はその面影はない。

信号を渡り、<薬研掘不動尊>による。そこから隅田川方面に出たがテラスに下りるところがないので、両国橋のたもとまでもどりテラスに下りる。途中の路地から見えたスカイツリーがすっきりとしていた。

反対のテラスから振り返って見える構図が、『百日紅』の最期の絵の構図であった。

北斎さんが90歳でなくなり、それから8年後お栄さんは姿を消すのである。どこで死んだかも不明である。

 

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