本所深川で誕生の滝沢馬琴と小津安二郎監督

本所深川に、映画監督の小津安二郎さん関係の展示場所があるということは知っていたが、なかなか訪れる機会を逸していた。両国あたりをふらふらしているのでこの際にと訪れた。江東区の古石場(ふるいしば)文化センターの一階に「小津安二郎コーナー」として公開している。

東西線の木場駅でおりて、古石場文化センター → 門前仲町駅 → 滝沢馬琴誕生の地 (方向転換) → 小津安二郎誕生の地 → 門前仲町駅 と概略をきめる。予定外の出会いもあるであろう。

とにかく川と橋が多い。そして川辺には散歩道が整備されていたり公園になっていたりする。古石場文化センターに行く10分ほどの間に渡ったのが、舟木橋、汐見橋、東富橋、琴平橋と四つ渡った。

女優の原節子さんが9月5日に亡くなられた。小津監督が亡くなられてから映画界から引退の形となり、その後私生活も公開されることなく、<女優原節子>を美しいままで封印することとなった。「築山秀夫 小津コレクション展 女優原節子と監督小津安二郎」が2月14日まで展示されている。

築山さんは全国小津安二郎ネットワーク副会長をされ、小津監督のご遺族や関係者から提供されたものを展示されているらしい。その都度展示も変わるのであろう。

小津監督が使用していたという撮影用のカメラもあり、それが小さくて、三脚も低く、小津監督ならではの撮影位置なのであろうか。

原節子さんや小津監督の関係雑誌記事や写真、映画のポスターが見やすいように開かれて展示している。その中で、一番印象的だったのが、雑誌に載っていた原節子さんのくわえたばこ姿である。

『秋日和』の顔合わせのパーティーが原作者の里見弴さん宅で開かれ、里見さんが何かをうたわれその喉を披露されたらしく、それに原節子さんが率先して手拍子をされ、吸っていたたばこがくわえたばことなったところを撮られたようである。佐分利信さんもくわえたばこで手拍子されていて、そのときの楽しい空気がよくわかる。こういう場をもつ原さんのくわえたばこが何とも恰好良いのである。

原さんは、何か手伝おうとされたのであろうか。白い割烹着を着て、里見さんが後ろの紐を結んであげている。原さんは恐縮し、そのお二人を小津監督が優しいまなざしで見つめておられる。

小津監督は、亡くなられる前、見舞いに来られた吉田喜重監督と岡田茉利子さんご夫妻に「映画はドラマでアクシデントではない」と言われたそうであるが、アクシデントでおきた原節子さんの先の写真などは映画としては認めない写真ということになるのであろう。

懐かしいというより、いやはやまだまだ映画から刺激を与えられる女優原節子さんと小津監督であると思わせられた。

古石場文化センターでは月に一度映画会を開催しているようで、そのときに配る職員のかたの手作りの<江東シネマ倶楽部だより>には、築山秀夫さんもシネマ雑記を載せられていて、映画好きには興味深い映画だよりとなっている。もちろん頂いてきた。

1月9日から11日まで江東シネマフェステバルが開かれていて、岡本みね子さんと星由里子さんのゲストトークも予定されており、力の入れ方がつたわる。

二階には、映画関係の本とパンフレットやチラシがファイルされていて、あいうえお順に並んでいて100円で売っていた。映画好きの人であろう。椅子に座って一心に目当てのものはないかと探されていた。

ここで思いのほか楽しい時間を過ごさせてもらい、門前仲町に向かうが右手に小津橋がある。これは、この辺りで富を築いていた小津家にちなんでいるらしく、小津監督はその分家の生まれである。門前仲町から、清州通りの滝沢馬琴さんの誕生地を目指す。途中に小津監督のご両親のお墓がある陽岳寺があり隣に法乗院・えんま堂があった。『髪結新三』の新三が弥田五郎源七に待ち伏せされるのが<深川閻魔堂橋の場>である。関係あるのであろうか。

仙台堀川の海辺橋を渡ると深川老人福祉センターがありその前に滝沢馬琴誕生の地の案内板がある。

<1746年に生まれ、旗本松平信成の用心を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の邸内で生まれ、1848年、82歳で亡くなる。1775年、9歳で父と死別し、その後は松平家の孫の遊び相手として一家を支え14歳のとき松平家を出る。門前仲町に住み文筆で身をたてようと、1790年山東京伝に入門。翌年処女作を発表。> 馬琴さんも苦労されている。

清澄庭園側に渡り、門前仲町に向かう。再び海辺橋を渡るとすぐに、<採茶庵跡>があり仮の縁台に腰かけている芭蕉さんの像がある。仙台堀川に沿って<芭蕉俳句の散歩道>があり芭蕉さんの俳句が並んでいる。<採茶庵>は弟子の杉山杉風の別邸でここから『奥の細道』に出発したと言われている。

確かめていないがここから隅田川沿いには<平賀源内・電気実験の地>もあるらしい。

驚いたのは、公衆トイレの壁に大きく『髪結新三』の閻魔橋の絵があり、 <描かれている橋は「えんま堂」の前に掛っていた黒亀橋、もとの富岡橋である> と説明文があった。やはり関係があったのである。

ところが小津監督の誕生の地の案内板が見つからなかった。以前歩いたときに偶然見つけたので簡単に見つかると思っていたら見事に裏切られた。確か芭蕉記念館から採茶庵跡を捜して門前仲町駅に向かった時見つけたと思ったのであるが、地図をみてもこの辺と思うあたりなのだが。

小津監督が通った小学校の位置もわかったので、終了とした。

今回寄れなかったが、昭和初期のたてもの<深川東京モダン館>が観光案内所になっているので、今度は寄ってからまた歩くことにする。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です