2016年 新春歌舞伎総集編(1)

歌舞伎座、新橋演舞場、浅草公会堂の新春歌舞伎、身勝手な感想編である。

年も改まり、置き去りにしている古い物に少し触れてとゴソゴソやっていると、「歌舞伎名舞台集」のテープがあって、七代目幸四郎さんの名前がある。昨年の12月にご縁があり(一方的)、ご縁の続きと思い耳の滋養とする。

かつてこれを聴いたときは、その当時の実際に観る歌舞伎役者さんの台詞より軽くて味気なく感じたのであるが、いやいや、その軽さの修練度がそこはかとなく伝わってくる。

七代目幸四郎さん、十五代目羽左衛門さん、十三代目勘弥さん、二代目左團次さん、六代目梅幸さん、四代目松助さん、六代目三津五郎さん、初代鴈治郎さん、初代魁春さん、四代目福助さん などなどである。

役者さんは第一に声といわれるが、声のなかには台詞の妙味ということも含まれている。

新春歌舞伎の台詞では、吉右衛門さんの梶原平三、幸四郎さんの清正、左團次さんの家康、鴈治郎さんの伊左衛門である。

『石切梶原』の吉右衛門さんは重軽、硬軟、表裏、明暗、その辺りの使い分けがいい。周囲の役者さんがしっかりした台詞なので、吉右衛門さんの余裕と心の内の変化の面白さを増してくれる。

『二条城の清正』の幸四郎さんは、いつもは声のトーンを変えるのであるが、今回は秀頼を家康から守る一心に集中して、トーンを変えない。それが、秀頼の金太郎さんとの主従の関係に情を、左團次さんの家康との拮抗する緊迫感を作りだす。豊臣家が徳川家の上であることを、秀頼を補佐しつつぴしっとダメだしをするのがいい。金太郎さんの秀頼としての台詞も崩れない。

『吉田屋』の鴈治郎さんは動きからして上方芸の極みで、どうしてこういうぼんぼんがモテるのか理解に苦しむ可笑しさである。さらになぜ美しい夕霧の玉三郎さんがこんな伊左衛門に惚れるのかと不思議に思ってしまう。観ているほうには可笑しくても、恋する男の見えないところでの真剣さであろう。最後は身請けのお金が届くというあっけらかんとしたハッピーエンドである。それをあきさせず笑わせつつ見せるのが上方芸の摩訶不思議なところである。

あとは、単発で印象に残ったのが『白波五人男』の赤星十三郎の笑三郎さん。『源氏店』の蝙蝠安の澤村國矢さん。これは凄かった。今まで観た中で一番の蝙蝠安である。『直侍』の暗闇の丑松の吉之助さんの迷い。『毛抜』の粂寺弾正(くめでらだんじょう)の巳之助さんが表現はまだであるが弾正に作った声を最後まで押し通した。

台詞でピンを止められたのが、『茨木』の渡辺綱が物忌みをしているのは、安倍晴明の言いつけであるということ。『直侍』の直次郎の染五郎さんが三千歳に、自分は先祖代々の墓に入れない身だから、回向院の下屋敷で手を合わせてくれという。<回向院の下屋敷>とはどこか。<小塚原回向院>で、小塚原刑場そばの寺院で、本所回向院に関係する方が創建したそうで、なるほどである。この台詞で三千歳に対する直次郎の惚れ度がわかり惚れさせる三千歳の芝雀さんにも納得。

立ち回りでは、『白波五人男』の菊之助の海老蔵さんの動きがよい。

ハードルを上げさせてもらうのは、『義経千本桜』の狐忠信の松也さん。もう一歩動きも台詞も修練を。『三人吉三』のお嬢吉三の隼人さん、お富の米吉さん。途中でほころびが出てしまう。まだ日にちがあるので一日一日大切にされるであろう。役の重さに負けない若さが強み。

踊りで均衡を保っていたのが、『廓三番叟』『猩々』。孝太郎さんの花魁に風格が。酒売りの松緑さん唇を小さくピンク系の口紅で穏やかな酒売りとなった。

『茨木』は能がかりで受け手としては重すぎた。『七つ面』がどうして歌舞伎十八番なのか、その面白さが解からなかった。

くるくる回るお正月の独楽の中で、回りの悪い独楽の戯言とお許しを。はや眼が回り過ぎた。

 

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