11月23日 法真寺 『一葉忌』(2)

図書館で『樋口一葉と歩く明治・東京』(監修/野口碩)を借りました。一葉さん関連の散策にはもってこいの本で、わかりやすいです。

その中に、「一葉忌」をされている法真寺の住職さんのことも紹介されていて、今の住職さんは海外で約11年勉強されていて奥さまがアメリカのかたなのだそうです。納得しました。本堂で腰ころも観音はどこかなと思って尋ねた若いお坊さんがどうも外国のかたのようで、修業にこられたかたかな、でも日本語が綺麗だったのでちょっと不思議だったのですが住職さんの息子さんだったのでしょう。そして、ステンドグラスと椅子。「仏教とキリスト教の死生観の違いを英語できちんと説明できる」住職さんと書かれていました。

『たけくらべ』にでてくる真如は、子供の頃、法真寺の境内で遊んだ小坊主さんがモデルではないかといわれています。

瀬戸内寂聴さんが講師でこられたとき、こういう法要の会を催すのは大変なことなのにきちんとされていてと感心されていたと郷土史家のかたが話されていました。

『こんにちわ一葉さん』(森まゆみ著)を読んでいて、小説を書き始めたころからの日記は小説を書くための絵であるならスケッチだったのではないかと思い始めています。日記は実際にあったことを記録するのですが、一葉さんは生活に追われ時間がありません。単発の時間を有効に使い、日記という短い時間で書けるものを使って、そこに情景や心理描写に創作をいれたり、写実的な観察の表現を練習していたのではないかなと思うのです。

日記の公開で、自分の書かれている部分にショックを受けた人もいたようです。今の上野にあった東京図書館に通って勉強したようですが、一葉さんの世界は狭いです。その狭さが一葉さんならではの作品となったのですが、日記という独自の勉強法で本郷丸山福山町で『大つごもり』『たけくらべ』『ゆく雲』『十三夜』などを一気に開花させたのではという推測です。

『ゆく雲』も、腰ころも観音さまがでてきて、どこにでもあるような当時の話に観音さまが見ていたという大きな慈愛をもたせています。そしてこの慈愛の眼が貧しき人々をえがく一葉さんの慈愛の眼となって作品となります。

ただ作品は作家のフィルターを通すわけで、一葉さんは決して観音さまではありません。一葉さんのフィルターは人生の辛苦をなめた一葉さん自身の嫌な部分が沢山あってのことです。

日記の公開は妹のくにさんが一葉さんの死後刊行を希望したのですが、『こんにちわ一葉さん』に興味深い記述がありました。

「 日記の中には出会った人びとへの辛辣な評価も含まれていたので、鴎外は公刊はしない方がよいだろうといい、露伴は公刊すべきだろうと文豪二人の意見が割れ、これが二人の疎遠の一つのもとを作ったともいわれています。 」

鴎外さんは、自分がドイツ留学中のドイツ女性との恋愛のことを小説にしていて、それは事実と違えて書いてもいて、一葉さんの日記というものに、日記ではない性格をも読み取っていたのではとも思えるのですが。この日記公開で、一番実生活を乱されたのは半井桃水さんでしょう。このことに関しては森まゆみさんが言及していますので、興味あるかたはお読みください。

平塚らいてうさんのことを調べていて、『断髪のモダンガール』(森まゆみ著)で、本郷菊富士ホテルの経営者夫人が森まゆみさんの親戚であったことをしりました。そして、『本郷菊富士ホテル』の著者・近藤冨枝さんが森まゆみさんの伯母さんだったのです。驚きでした。近藤冨枝さんは、文士たちの集まっていた、田端、馬込の『田端文士村』『馬込文学地図』も書かれていますが、今年の7月に亡くなられていました。(合掌) 一葉忌でも二回講演されています。

そして、一葉さんの作品を芸で伝えることのできた新派の二代目英太郎さんも11月11日に亡くなられました。(合掌) 明治、大正、昭和の初めの人物像を女形で表現できる方でしたので、市川春猿さんが歌舞伎から新派に代わられ、英さんに新派の女形を教えてもらえるであろうと心強く思っていたのですが、なんとも残念です。

9月の新橋演舞場での芝居『深川年増』が最後の舞台で、口上で、中嶋ゆか里さんが幹部になられ<英ゆかり>と改名されたと紹介されたので、<英>の名前が二人になるのだと思ったのですが急なことでした。最後の元気な舞台姿を観れたのが幸いでした。

今、時代を表現できる役者さんが少なくなって、現代の人と変わらない表現力の無さで、古い映画をみて味わうか、あとは、小説の世界に籠るしかなくなるのでしょう。

さて次の一葉散歩は、本郷丸山福山町から一葉さんが通われた東京図書館までとしましょうか。東京図書館は、今の上野の国際子ども図書館と東京芸大の間あたりのようです。一葉さんは西片と本郷に掛る空橋(からはし・現清水橋)を通り、東大を突き切って通われたようです。

『加賀鳶』から始まった伊勢屋質店は、跡見学園女子大が所有し、土・日と一葉忌に公開してくれています。一葉さんの頃の建物は明治20年に移築した土蔵部分だけで、あとは一葉さんの死後に建てられた建物です。この質屋さんに質草を入れたり出したりしたわけです。

一葉さん一家は、蝉表(せみおもて)という雪駄(せった)の藤で編んだものの内職もしていて、一葉さんは下手で、妹のくにさんは上手く、洗い張りや縫い物よりも駄賃は少し高かったようですが、生活するには到底足りなかったでしょう。

『加賀鳶』の書かれた明治19年にはここに伊勢屋質店はあったわけですが、その時代の建物は残っていません。そして<加賀鳶>に関しては、次の記述がありました。

将軍家の姫君を迎える特別な朱塗りの御門「 この御守殿門は万一焼失すると、将軍家に対する忠誠心を疑われるばかりか、縁組みそのものまで帳消しにされかねなかった。そこで前田家は加賀鳶とよばれた大名火消しを組織して、防火に努めた。 」(『樋口一葉と歩く 明治・東京』)

てやんで! 赤門の向かいにはお夏ちゃんこと樋口一葉というりっぱな文学者がいたんだよ! 赤門がなんだい! ちょっくら通してもらうよ~ん・・・ってんだ。

 

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