『築地にひびく銅鑼』と映画『さくら隊散る』

憲法記念日です。教育勅語を暗記するなら、日本国憲法の前文を朗読したほうが、崇高な気持ちになれるとおもいます。憲法について話し合うことは良いことだと思います。しかしどうも、今の政府は都合の悪いことは隠し、言葉巧みに解釈し、棄民しそうで不信感をつのらせます。国民を守るといいつつ、法規制ばかり強化して、いいように解釈されそうで素直な気持ちにはなれません。かなり疑っています。

広島で被爆され亡くなった俳優の丸山定夫さんの伝記小説『築地にひびく銅鑼 - 小説 丸山定夫』(藤本恵子著)を手にして、さらに新藤兼人監督の『さくら隊散る』を見ることができました。

丸山定夫さんは、新劇のかたたちの間では伝説化されているかたでもあり、同じ劇団で被爆され亡くなられた園井恵子さんは宝塚出身で、坂東妻三郎さんの映画『無法松の一生』の吉岡夫人として知られています。この映画『無法松の一生』は見ていましたので知っていましたが、園井さんが宝塚で男役であったのは知りませんでした。

映画での楚々とした吉岡夫人から宝塚の女役と思っていました。稲垣浩監督から「園井さん女になってください」と言われたそうで、どうしたらよいかわからず、まず母親になろうと吉岡少年役の沢村アキヲ(後の長門裕之)さんと撮影の合い間に一緒にいて話しなどをしたということです。

それに比して丸山定夫さんの情報が少なく、藤本恵子さんの本で、こういう経過をたどられたかただったんだという事がわかりました。藤本さんは、評伝ということではなく、伝記小説として書きたいとして書かれているので読みやすく、登場人物もいきいきと描かれています。

丸山さんは、広島での歌劇団から出発していて、浅草では榎本健一さんとも仕事をしています。そして、下火となった浅草オペラの状況から、榎本さんに<新劇>にむいているかもしれないよと言われます。「築地小劇場」の設立に参加するかたちとなり研究生となり、築地小劇場の開幕招待日の小山内薫さんの挨拶のあと、銅鑼を鳴らす役を丸山さんは任され、そのことから『築地にひびく銅鑼』が本の題名となったのでしょう。

この劇場に住み込み、新劇への道にはいるのですが、小山内薫さんの死後劇団内部の対立が表面化して、土方与志さん側の丸山さんは他の5人(山本安英・薄田研二・伊藤晃一・高橋豊子・細川ちか子)とともに「新築地劇団」を結成します。

1930年になると国の検閲がきびしくなり、再び榎本健一さんの「エノケン一座」に加わっています。このとき榎本さんは何も言わず百円という大金をさしだしていて、かつて一緒に巡業した時丸山さんがお金を作ってくれた時のお返しでした。

丸山さんは、榎本さんに「帰るのか?えっ、あのしちめんどくさい、エラソーなお芝居に」と悪態をいわれつつも解かってくれている榎本さんの一座を後にし、「新築地劇団」に復帰、東宝の前身であるPCLの専属俳優となります。

戦局は激しくなり、「新築地劇団」は満州巡演にでます。もどって二か月後、国情に適さないとして劇団は解散させられます。活動は11年でした。

1942年、徳川夢声さんの声かけによって、丸山定夫さん、徳川夢声さん、薄田研二さん、藤原釜足さんの四人で「苦楽座」を結成します。薄田研二さんは、私たちが見られる時代劇映画では品ある家老から人のよいじい、さらに悪役などもこなすお馴染みの役者さんですが、この時、俳優の芸名が廃止され本名の高山徳右衛門に改名しています。また藤原釜足さんは、大化の改新での功臣の名前を使うとはけしからんとして鶏太に改名した時期でもあります。

「苦楽座」の<苦楽>は、丸山定夫さんが、1924年に創刊された『苦楽』に小山内薫さんの名前があり、小山内さんの名前に魅かれて買った雑誌が頭にあったようです。

私が雑誌『苦楽』を知ったのは、鎌倉の<鏑木清方記念館美術館>と横浜の<大佛次郎記念館>でです。 雑誌『苦楽』の大佛次郎と鏑木清方

新たなる仲間を募り、日本移動演劇連盟に加入し<苦楽座移動隊>として各地で公演し、1945年6月22日<苦楽座移動隊>は<桜移動隊>と名をかえ東京を出発します。そして広島での8月6日を迎えるのです。

その後のことについては、新藤兼人監督作品『さくら隊散る』が詳しいです。桜隊に参加されていた方々については多くの関係者がインタビューで語られています。

<桜移動隊>で被爆されたかたは9人で、丸山定夫さん、園井恵子さん、高山象三さん、仲みどりさん、森下彰子さん、羽原京子さん、島木つや子さん、笠絧子さん、小室喜代さんで、皆さん即死されたり、8月に亡くなっておられます。

高山象三さんは、薄田研二さんの息子さんで、演出のほうを勉強されていました。時代劇映画では悪役の上手い薄田研二さんが出てくると、今回は主人公の味方なのと思ったりして楽しませてもらっていた役者さんに、こんな悲しい事実があったとは知りませんでした。

仲みどりさんは、やっとのおもいで広島から東京にもどり、東大病院で診てもらいます。白血球の数が異常に少なく、検査間違いではないかと疑われます。放射線医学の権威である都築正男教授がいたため、仲みどりさんは、人類はじめての原爆症患者に認定されますが8月24日に亡くなられてしまいます。仲さんの臓器の一部は標本として保存され、その後すぐ、都築正男教授は広島入りをして原爆症にたずさわるのです。そんなこともはじめて知りました。

目黒区にある五百羅漢寺には「桜隊原爆殉難碑」が建っていまして徳川夢声さんが中心なって建立されたようで、かなり以前、五百羅漢寺で見ていましたが深くは知りませんでした。

丸山定夫さんの名前は知っていても、演技は見た事がありません。映画館ラピュタ阿佐ヶ谷で丸山さん出演の『兄いもうと』(木村荘十二監督)を上映していますので昨日観に行ったのですが、到着が遅くて満席とのことで観ることができませんでした。定員48名という小さな映画館ですが、みたい人がいたということで良しとします。東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵作品ですのでまた出会えるでしょう。

追記1: 神保町シアターで上映している『旅役者』は、昭和15年という戦時色強い中での成瀬己喜男監督の喜劇で驚きました。主人公が藤原釜足さんで、クレジットには藤原鶏太とあり、成瀬監督の新劇人のスピリットに対する応援と思いやりと映画人としての逆説的心意気のようにも感じました。見ている方も気持ちよく笑わせられました。成瀬己喜男監督の変化球味わいました。

追記2: 日米共同研究機関「放射線影響研究所」(放影研)が設立70周年の記念式典(2017年6月19日)で現理事長さんが、放影研の前身である「米原爆傷害調査委員会」(ABCC)が、治療はしないで調査だけをしていたことに言及し謝意を表明されました。悲しい事実ですが、きちんと知らしめ、犠牲者の苦しみを再度思い起こすことは大切なことと思います。

 

 

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