『鉄砲喜久一代記』の拡散(5)

  • 鉄砲喜久一代記』について筆者の油田憲一さんはあとがきで書かれている。「三十年の長期にわたり、文献を追い、現場を訪ね、彼と面識を持つ多くの人に会い、できるかぎり正確を期する努力をしてきた。筆者自身は鉄砲喜久と何回も会っているが、幼児であったために彼の風貌と感触以外に知り得たものは少ない。したがってほんとんど収集資料に頼った。」そうなのである。史的事実、産業界の動き、興行界、政治家の私的動向など、調べていなければ書けない内容が満載である。いかに喜久次郎の行動範囲がひろかったかも実証されている。

 

  • 喜久次郎の生家は、喜久次郎が養子になったので、生家のほうも養子を迎え山田屋の名前で薬局業を営み、あのガマの油を復活販売していたのである。浅草の奥山でも口上を述べて売っていたし、大道芸としても演じられている。復活販売の時、口上と効能書きの原稿を書いたのが、少年時代の筆者であった。残念ながら山田屋は閉めてしまったようである。

 

  • 宝井其角の歌が、喜久次郎がお辰と出会ったときの空模様を表すものとしてでてくる。「 夕立や 田をみめぐりの神ならば めぐり会いにし濡れつばめ 結べえにしの糸柳  川向こうの宝井其角の夕立塚で、雨乞いをしていた人達の御利益があったためか、日照りつづきの炎天が、その夕刻におよんで、にわかにかき曇って、恵みの雨が期待されるようになった夏の宵だった。」こういう風に、お堅い文章だけではない惹きつける表現もあってぐいぐいひぱってくれた。八月の歌舞伎座演目に『雨乞其角』とあり、ほほう!とにんまりである。記憶にない演目で愉しみである。

 

  • 木馬館」は最初「昆虫館」であった。経営が思わしくなく、二階を昆虫館に下を木馬を回らせ「木馬館」としたのである。この木馬、曾我廼家五九郎が喜久次郎のところにもってきた話で、さっそく根岸に購入させ、孫の吉之助に受け持たせろと言ってそうなったのである。ジンタが流れ、ガッチャンチャン、ガッチャンチャンと三段階に揺れながら回ったのだそうだ。「昆虫館」は、歌舞伎『東海道中膝栗毛』の 座元釜桐座衛門(中車)は芝居よりこっちのほうがいいよと言いそうである。こちらも八月歌舞伎座で、再びお伊勢参りにいくらしい。猿之助さんは、八月は歌舞伎座と新橋演舞場『NARUTO ナルト』との掛け持ちである。移動には人力車がいいかも。

 

  • さて、『鉄砲喜久一代記』からの沢山の拡散があったが、映画『乙女ごころ三人姉妹』 も浅草が舞台の映画で、成瀬己喜男監督で原作が川端康成さんである。脚本は成瀬監督でこんなにも脚色するのだと驚いてしまうが、原作の『浅草の姉妹』は、浅草で頑張って生きる三姉妹には変わりはない。花やしきのタワー飛行機に次女お染と三女千枝子が、別々に前後して乗って、その上から、喫茶店の二階の窓が見え、中に男に囲まれた長女おれんをみつけるのである。この偶然の場所での三姉妹の出会いが劇的である。二人は、他の門付けをしている娘とくんでおれんを助ける。おれんは、東武電車で日光に帰る小杉を見送るのである。その後、これから旅興行に出る千枝子をおれんとお染が上野まで送っていくというところで終わる。さて川端康成さんの浅草ものをこれから読むことにする。

 

  • 其角の雨乞いの歌碑は隅田川を渡った向島の三囲神社の中にある。その近くに「すみだ郷土資料館」がある。かつてここで堀辰雄さんの展示に出会って驚いたことがある。堀辰雄さんといえば『風立ちぬ』など、軽井沢の自然豊かな中での清楚な乙女との恋である。下町のイメージがなかったのである。牛嶋神社の近くに堀辰雄旧居跡もある。彼は、養子となっていて家族関係は良好であった。関東大震災で、隅田川に飛び込み、肋膜炎となる。その後、肺結核となるが、この時に肉体的にダメージを受けたのではなかろうか。宮崎駿監督がアニメ映画『風立ちぬ』には、墨田川の川蒸気船が登場し、川花戸船着場がでてくるらしい。というわけで、このアニメもそろそろ観ようと思うし、「すみだ郷土資料館」も再度訪れる機会をつくりたい。

 

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