『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から (1)

  • 日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)については書き込みする気はなかったのであるが、講師のかたがたの講議から読みづらいと思っていた作品などが読めたり、観ていなかった映画などを観て見ようと触発されたので書き記しておくこととする。講議に関しての報告というより聞いてどうつながったかということである。いつもながらの、どう勝手に飛んだかということでもある。

 

  • 作家・中上紀さんが、父上である作家・中上健次さんとの家族としての生活から作品に流れている原点や書き表したかったことなどを話された。そのことで、和歌山の新宮にある「佐藤春夫記念館」で購入した『熊野誌 第50号記念冊 特集 中上健次・現代小説の方法』が読めたのである。購入したときは全然受け付けなくて中に入ることができなかったのでほったらかしてあったが、もしかしてと思って読み始めたら進んでいけた。読めたからと言って理解したということにはならないのであるが、読めたということが嬉しかった。図書館で中上さんの作品を立ち読みし借りるかどうか検討できる段階には位置する。

 

  • アメリカで家族で暮らし、アメリカから熊野の新鹿(あたしか)で暮らすことになる。中上紀さんはアメリカへは逃避であり、熊野は漂着と表現された。熊野が漂着を受け入れる場所であると。中上紀さんが話す熊野は旅をした風景を思い出させる。ところがそこから一転、熊野で<二木島の事件>が起る。そのこと脚本にしたのが映画『火まつり』(柳町光男監督)である。観ていないが中上健次さんの中での熊野の一端が発せられているようである。作品『熊野集』あたりで探れるようである。

 

  • 中上健次さんは雑誌『文芸首都』に同人として参加し、同時期の同人に林京子さんと津島祐子さんがいる。津島祐子さんは、太宰治さんの娘さんである。講師の詩人・伊藤比呂美さんが太宰治さんについて熱く語られた。昨年は森鴎外さんを熱く語られ、鴎外は夫で、太宰は愛人であると宣言し、今年は愛人について書かれた詩も朗読された。伊藤比呂美さんは津島祐子さんに会われた事があり、その時津島さんが太宰の作品の中に自分の事が書かれていないか探したと語られ、言葉に詰まったようである。出てくるのは二箇所で、一箇所は太宰の奥さんである母に抱かれており、もう一箇所は話されなかったのでわからない。次の日、中上紀さんが父・中上健次さんとの家族生活について話されたので、同じ作家の子であるが津島さんとの違いを感じ、津島さんの求めた父の心細さがふっと哀しくさせる。

 

  • 林京子さんについて話されたのが、作家であり、長崎資料館館長でもある青来有一さんである。林京子さんは1945年(昭和20年)8月9日、長崎で被爆され、そのことを作品にされたが『祭りの場』である。『祭りの場』で芥川賞を受賞された。「経験のないものが、原子爆弾のことを書くうしろめたさ」を青来有一さんが語った時、林京子さんは「自由に書いていいのですよ、小説は自由です。」といわれて大変励みになったそうです。

 

  • 祭りの場』は、被爆されて30年たって書かれたのである。記憶も薄れているということもあってか、事実関係のみで書かれている部分と、自分が逃げるときに感じた感情とを分離して書かれていて、これが読みやすかった。読み手が変な感情移入でおたおたせずに、しっかり現実をとらえることができたのである。何が起こったのかもわからず、自分のことしか考えられずに歩き続けるのである。この時林京子さんは14歳。学徒動員で三菱兵器大橋工場で労働していて、爆心地から1.3キロの場所で奇跡的にたすかるのである。動員学徒、工員合わせて7500名が働いていて、行方不明が6200名となっていて、死亡が確認できない者で殆んど死亡とみてよいと書かれている。

 

  • 青来さんによると、林さんは14歳の時、体重29キログラム。食べる物がないので体力もなく長崎高女324名のうち40名くらいは休んでいたようである。読んでいてさらに悲しいのは、その日出張で工場に行かなかった先生が次の日から生徒たちを探しにいくのであるが、二次放射線による原爆症で一か月後に亡くなっている。それも亡くなる数日前から気が狂われた。林さんは、先ず生存していることを学校に報告しなくてはと学校に向かうのであるが、爆心地の松山町を通っている。林さんは、「放射能のこわさをしっていたらこんな馬鹿はしない。」と書かれている。途中下痢をして、そのことが後になって放射能障害であるということを知る。無傷でよかったと安心していた人々が、こんどはこの放射能被爆により亡くなり、不安とともに生きることになるのである。

 

  • 10月に二学期が始まり、始業式は追悼会から始まった。各学年1クラスずつ減って400名近い生徒が亡くなった。「生き残りの生徒が椅子に座る。生徒の半数が坊主頭である。」「生き残った生徒は爆死した友だちのために、追悼歌をうたった。」「私は時々追悼歌を口ずさむ。学徒らの青春の追悼歌である。」

 

  • 春の花 秋の紅葉年ごとに またも匂うべし。みまかりし人はいずこ 呼べど呼べど再びかえらず。あわれあわれ 我が師よ 我が友 聞けよ今日のみまつり。

 

  • 「アメリカ側が取材編集した原爆記録映画のしめくくりに、美事なセリフがある。 - かくて破壊はおわりました - 」

 

  • 作家・高橋源一郎さんからのお知らせあり。
  • 8月15日 NHKラジオ第一 20時05分~21時55分 高橋源一郎と読む「戦争の向こう側」 作品は野坂昭如(1930年生まれ・終戦15歳)『戦争童話集』、小松左京(1931年生まれ・終戦14歳)『戦争はなかった』、向田邦子(1929年生まれ・終戦16歳)『父の詫び状』、石垣りん(1920年生まれ・終戦25歳)『石垣りん詩集』
  • ミュージシャン・坂本美雨
  • 詩人・絵本作家・アーサー・ビナード
  • 詩人・伊藤比呂美 (えっ!大丈夫かなとおもったら、高橋源一郎さんもどうなるのか心配ですと。どうなるかわからないくらいエネルギーのあるかた。アニメ『この世界の片隅に』の浦野すずは1925年生まれで、終戦は結婚していて北条すずとなり20歳です。)

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です