椿大神社・大正村・熊谷守一つけち記念館への旅

  • 『熊谷守一つけち美術館』が第一の目的であった。そこに一日コースとして『大正村』を加え、半日コース『椿大神社』を加える。天候が不安定で、日程を変更に変更を重ね、さらに一日目が『熊谷守一つけち記念館』であったが、雨の三日目に変更。晴れの一日目を『椿大神社』とする。災害が猛威をふるい、突然、人の命が奪われたり(合掌)、長い間かかって築きあげてきたものが一瞬にして崩壊してしまう方々が多く、悲しく辛いことが押し寄せる昨今である。外国人の方の旅行者も少なかった。

 

  • 椿大神社』は、伊勢国一の宮で、主神は猿田彦大神である。幾つかの行き方があるがJR関西本線の加佐登駅から一時間に一本のバスを利用した。加佐登駅は、旧東海道の桑名宿から関宿まで歩いた時、近鉄・内部駅からJR・加佐登駅までは近くに電車の駅のないところで、加佐登駅まではと時間配分に気を使った場所である。予定通り加佐登駅を通過し次の井田川駅まで進むことができホッとした記憶がある。加佐登駅は無人駅で周辺の案内板に『佐々木信綱資料館』『石薬師寺』などが書かれてある。

 

  • これは44番目の宿・石薬師宿で歌人・佐々木信綱さんの生家もあり、石薬師寺も趣のあるお寺であった。小沢本陣跡には明治に建て替えられた旧家があり資料がたくさんあった。宿帖には、忠臣蔵の赤穂の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)や、伊勢山田の奉行だった大岡越前守の名前もあった。次の井田川駅との間に庄野宿があり、昔の面影が少しのこっている。桑名宿→四日市宿→石薬師宿→(加佐登駅)→庄野宿→亀山宿と続いている途中の駅が加佐登駅である。ここから『椿大神社』まではバスで40分である。

 

  • 境内には、猿田彦大神の妻神・天之細女命(アメノウズメ)を祀った『細女本宮椿岸神社』もある。天照大神が岩戸に隠れた時踊ったあの神様で芸能の神様とされている。朱色の鮮やかな社である。そして、古くなった扇を納め、新たな気分で芸道に励むことを願う『扇塚』もあった。さらに、倭建命(ヤマトタケルノミコト)とその御子の建貝児王(タケカイコノミコ)を祭神とする『縣主神社(あがたぬしじんじゃ)』もあった。四日市宿と石薬師宿の間の石薬師宿側に杖衝坂(つえつきざか)がある。ヤマトタケルノミコトが剣を杖がわりにして越えたといわれる坂であるが、そんなに急だったかどうか思い出せない。

 

  • 芭蕉が江戸から伊賀に帰る途中この坂が急で落馬したともいわれ、その時の句碑がある。「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」(めずらしく季語がない句である) さらに『血塚社(ちづかしゃ)』の小さな祠がある。ヤマトタケルノミコトが、坂でけがをして足から流れた血を封じたところだという。とにかく箱根を下って、三島にはいる「下長坂」、別名「こわめし坂」が一番と思っているので記憶として残らなかったのであろう。『椿大神宮』に「かなえ滝」というごく小さいが流れの勢いのよい滝があってその横に絵馬を掛ける場所がありる。絵馬が椿の絵でなかなかいい感じであった。どうか自然界をお静め下さい。

 

  • 大正村』は、JR中央本線恵那駅から明知鉄道に乗り換えた明智駅のすぐ近くから展開する。ところが、5年ほど前に一度計画して失敗したことがある。PCの乗り換え案内で検索して、名鉄広見線の明智線の明智駅へ行ってしまったのである。明智駅が二つあろうとは。もどるには時間がかかり過ぎるので『大正村』は一旦中止である。今回行く気になったのは、明智光秀さんの生まれたところでもあるということからである。

 

  • 明知鉄道からの風景がいい。実りの稲穂が一面うす黄色なのである。朝ドラはみていないが途中の駅・岩村駅はロケ地のようで、城下町として残っておりで散策によさそうである。花白温泉駅もあり駅前に温泉がある。明智は現地についてからの勝負であるが、大正ロマンコースと歴史探訪コースの両方を周る予定である。

 

  • 観光案内で説明してもらう。ところが明知城址に登って下りる道を、教えてくれたのと反対側に下り、時計回りにもどってくる予定が、実際には反対方向に歩いていて何かおかしいと思い、土地の人に尋ねて反対側におりたことに気がつく。とにかく出発点にもどることにする。明知城址からの下りの表示通りに下ったのが間違いのもとである。下りた場所に何か表示しておいてほしかった。ということで、明智光秀公の母堂・お牧の方墓所だけパスとなった。

 

  • 『大正村』は、土木工事現場で働きつつ木曽路の写真を撮り、木曽路を広く知らせた澤田正春さんというかたが発案して観光地となったと説明があった。大正路地絵画館八王子神社(光秀公が柿本人麻呂を祀り手植えの楓あり)→明智光秀公御霊廟龍護寺(遠山家累代の墓、桔梗が咲いていた)→代官屋敷跡大正ロマン館旧三宅家明智城(白鷹城)址天神神社(光秀公幼少の頃の学問所)→ここからおかしなことになったらしい→予定では・お牧の方墓所→千畳敷公園光秀公産湯の井戸大正時代館うかれ横丁日本大正村資料館であるが、明智城址下から半周して明智駅前にもどり千畳公園にむかう。明智城址への途中、大正村役場などなど見学できる場所などは、さっーとのぞかせてもらう。

 

  • 面白い新しい発見は、宝田明さんと司葉子さんの映画『青い山脈』が、中津川、恵那市で撮影されていたことである。『日本大正村資料館』には、恵那市にあった元・大栄座の歌舞伎のポスターがあった。市村羽左衛門、松本高麗蔵、市松延見子の名があり、演目『絵本太功記」『佐倉義民伝』『隅田川(法界坊)』『一谷嫩軍記』『雪月花』『野崎村』である。岐阜地歌舞伎の盛んなところでもあり、芝居小屋『五毛座』(恵那市)『相生座』(瑞浪市)『常盤座』(中津川市)『蛭子座』(中津川市)『かしも明治座』(中津川市)がある。

 

  • 仁丹の広告があり、印度のバロタ国王もお買い上げで「諸君今日はアツイと思す時 必ず仁丹を口中あれ!」とある。蓄音機のところには、「見世物で始まった蓄音機」と説明が。明治に浅草の花屋敷の五階建ての奥山閣(おうざんかく)で「ひとりでものをいうきかい」として聞かせ、二か月後には團十郎さんや菊五郎さんなどの歌舞伎俳優の台詞を吹き込んだものを聞かせたとある。

 

  • 大正の館では、家屋と庭の間におりる階段がありそこに水が流れていた。水が流れているところに家を建てたのであろうか。上からみると普通の家と庭である。帳場には立派な電話室があった。当家には電話があるよと文明の利器を誇示し、特別扱いのようである。新聞の大正十大ニュース。桜島大噴火・第一次大戦・ロシア革命・シベリア出兵・米騒動・原首相暗殺・有島武郎の心中・関東大震災・大杉栄の暗殺・ラジオ第一声。有島武郎の心中が入っているのが驚く。

 

  • 明知鉄道の恵那駅から明智駅まどの往復運賃は1380円でフリー切符も同額である。帰りは、花白温泉駅でおり、目の前の温泉へ。疲れていたのでラッキーである。さらに貸し切り状態。群馬のわたらせ渓谷鉄道水沼駅にはホームから入れる温泉施設があるが、それに次ぐ駅からの近さかもしれない。前日80パーセントの雨予報だったが少しの雨で涼しくて助かった。もし、風の強い雨なら、金山の名古屋ボストン美術館と平針東海健康センターで大衆演劇を観つつゆっくりするつもりであった。

 

  • 熊谷守一つけち記念館』へは、JR中央線中津川駅から一時間に一本のバスがあり下付知バス停まで40分ほどかかる。付知川のそばにあり、記念館の休憩コーナーからは下に付知川、前方の斜面に民家、その先に山々が連なっている。その奥が木曽なのであろう。付知川の両側は春の桜、秋には山々の紅葉、冬には雪山だそうである。この日付知川は濁って水嵩が高かったが雨のためで、いつもは非常に透明度が高く、夏は子どもの川遊びの場となり、蛍も楽しめ別名・青川である。近くには商店もあり付知ギンザと称し(案内地図があった)、ランチも楽しめそう。

 

  • 海に白い波がさらっとひと筆描かれているのに波が動いてみえる。開拓地で働く人の腰の曲がり方に、その大変さがみえ、緑の葉っぱの下に隠れるカタツムリ、雨がぽつりと降り始めたようである。どうしてこの色とこの色でバランスがとれて心地よいのかとその配分加減に感心する。簡単に出せそうで出ない色なのかなもしれないが、その苦闘の感覚がなくて楽しい。生きていることを楽しんでいる。

 

  • 以前、『熊谷守一つけち記念館』はもう少し先にあり、今はそこは画家の娘さんの『熊谷榧(かや)つけちギャラリー』となっている。同じバスで先の新田バス停でおりる。3キロくらいだそうであるから季節のよいころなら歩くのもいいかもしれない。熊谷さんが東京で暮らしていた場所は『熊谷守一美術館』となっている。絵を観たいとおもえば東京でも会えるが、「つけち(付知)」の風景が美しい。

 

  • 切り出した木材を付知川上流から下流に流す仕事にふた冬、熊谷守一さんも従事している。30歳のころである。一本の丸太の上に乗って、まわりのたくさんの材木を上手く運ぶのである。付知ではこの仕事をするひとをヒヨウ(日雇)とよんでいた。下付知には、かつての北恵那鉄道の下付知駅があった。木曽川に大井ダムが出来、川で木材を運べなくなったための見返りの鉄道である。中津川駅の近くの中津町から下付知まで走っていたのである。今は廃線である。

 

  • 大井ダム・大井発電所を造ったのが、福沢諭吉さんの養子で電力王と言われた福沢桃介さん。南木曽に桃介橋というのがありました。そして、大井ダムによってできたのが今の恵那峡ということです。人工が加わっていたのである。自然というのはつながっているわけです。電車で旅をしていると、このつながりがわからず、えっ!と山を飛び越えてのつながりに驚くこととなる。川もつながっているのである。熊谷守一さんは東京の家にこもっていたが、その中にはきちんと自然の大きさが内蔵されていたのである。やはり訪ねてきてよかった。

 

  • 役者さんなど亡くなられる方々が多くて、お一人お一人触れているわけにもいかず失礼することにしていた。樹木希林さんは、今回の旅で電車で隣り合わせた方との話しにでたので触れさせてもらう。その方は名古屋から加佐戸に向かう車中ご一緒し、奈良から名古屋までお母さんの介護に通うご婦人でした。旅のことを聞かれ、その日程を話したところ、映画『モリのいる場所』をご覧になっていた。観たきっかけが、テレビの映画の宣伝映像の樹木希林さんの着ている物に目が留まってのことであった。樹木希林さんが、着物のリフォームも、着物としてはどうもと思うもののほうが着やすくてよくなるといわれていたのだそうである。生き方や生活感にも役者さんとしての力量と拮抗させて魅了させたかたであった。(合掌)

 

椿大神社・大正村・熊谷守一つけち記念館への旅」への5件のフィードバック

  1. コメント欄に相応しくない内容かもしれませんが、お許しください。
    松本高麗蔵、について調べていたらこのページに辿り着きました。大正村にあった歌舞伎ポスターに名前が載っていたとのこと。
    私の母方の曽祖父が、松本高麗蔵という名の歌舞伎役者だったと聞いています。思いたって調べているのですが、ネットではなかなか難しいようでほとんど情報が見つけられません。もし何かご存知でしたら、教えて頂けないでしょうか。
    私は歌舞伎のことは、何も知識の無い初心者です。
    不躾なお願いで申し訳ありません。ご存知なければ無視してくださって結構です。よろしくお願いいたします。

    • コメントいただきありがとうございます。残念ながら私も松本高麗蔵さんに関しては知識がありません。松本とはめずらしいと思いました。お役に立てなくて申し訳ありません。

      もし御存知の方がありましたら、資料等などコメントしていただければ林さんのお役にたつと思いますのでよろしくお願いいたします。

    • 何気なく気を付けてはいるのですが松本高麗蔵さんのお名前をその後、目にしておりません。ただ、『浅草六区はいつもモダンだった』(雑喉潤著)の中に、明治19年の浅草常盤座で松本高麗之助、坂東雛助、市川紅車らの役者を招いて歌舞伎の幕をあけたとあり、松本高麗之助さんの周辺に松本高麗蔵さんはいらっしゃらないかなと捜しましたが見つけられませんでした。何かありましたらコメントでお知らせします。

      • お返事の御礼もせず、大変失礼致しました。気に掛けて下さっていたこと、本当に有難く思います。
        何か新たにご報告質問等あってからと思っていましたが、特に進展はありません。いつかそのうちに、大正村や熊谷守一つけち記念館等、是非訪れてみたいと思っています。
        どうもありがとうございました。

        • お役にたてなくて申し訳ありません。

          もし、大正村の資料館でポスターを見ることを目的とされますなら、一応、資料館に展示されているか確かめられてからのほうが良いかと思います。展示品が変わることもあるかと思いますので。

          ポスターの市村羽左衛門、松本高麗蔵、市松延見子の名前の上に顔写真がありました。
          お化粧しての写真ですのが、もし曽祖父さまのお写真があれば面影が一致するかもしれません。
          ただ一つ、松本高麗蔵さんではなく市川高麗蔵さんの間違いでポスターを作製したこともありえるなとも思っています。
          ポスターには公演日が書かれていませんでしたので実際にいつ公演されたかは不明なのです。
          もし、市川高麗蔵さんであれば歌舞伎に詳しい方がポスターの写真をみればわかるかもしれません。

          ミステリアスなポスターにしてしまいましたが、もし行かれる機会がありましたら、大正村や熊谷守一つけち記念館周辺を楽しまれてください。
          旅は思いがけない出会いがあるものです。

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