『瀬川昌久の94才 僕の愛した昭和モダン流行歌』

  • 刺激してくれるCDである。『瀬川昌久の94才 僕の愛した昭和モダン流行歌』。こういう素敵な構成はさすが94才の音楽とともに生きて来られたかたならではであると嬉しくなる。淡谷のりこさんは、テレビの映像で胸の前で手を組んでブルースを歌う姿しか印象にないが、こんな歌も歌われていたのかと淡谷さんの歌の領域が広がる。二葉あき子さんもしかりである。「僕の愛した」が根底にあるのが聞く者を楽しさと驚きの世界に運んでくれるのであろう。

 

  • 瀬川昌久さんが三才のときロンドンで聞いた西洋メロディを、日本に帰って来て日本人が唄っているのを聴いてその違いをも楽しむのである。日本版になるとこうなるのかと。昭和8年(1933年)から昭和28年(1953年)までである。解説が軽く専門的で、なるほどなるほどと知った気にさせてくれるのが、これまた瀬川昌久流であろうか。

 

  • 劇団民藝『時を接ぐ』を観たばかりなので、李香蘭さんにも注目する。瀬川昌久さんは、アメリカ映画が上映禁止になったので、中国人の李香蘭さん(そのころは日本人とは誰も知らなかった)がハリウッド女優に代わる異国情緒の魅力的存在となったとされ、そういうことも加味されての李香蘭さんの人気だったのかと当時の人々の気持ちも伝わる。

 

  • 満映と東宝提携映画『私の鶯』の主題歌『私の鶯』の李香蘭さんのソプラノには驚愕してしまった。『蘇州の夜』は仁木他喜雄さん作曲であるが、仁木さんがこの旋律を映画『そよかぜ』のなかでバンド演奏のメドレーにいれているというので観なおした。

 

  • 映画『そよかぜ』はGHQの検閲を通った第一号映画である。『リンゴの唄』は大ヒットした。歌手を目指す18歳のみち(並木路子)が照明係をしつつ舞台をみつめ、バンド演奏の『蘇州の夜』を聴きつつハミングしている。あの中国メロディを思いっきりアレンジしている。つながっていたのだと「接ぐ」が浮かぶ。

 

  • コロムビア収録のものが中心である。昭和10年代、銀座や浅草の劇場では、映画とコロムビアの歌手がコロンビア・オーケストラをバックで新しい流行歌を歌っていたのである。10代の少女がタップを踏みながら『靴が鳴る』や『お祖父さんの時計』を歌っている。ミミ―宮島さん。初めて名前を知る。可愛らしい歌い方である。

 

  • サトウハチローさんなどもこのことは知っておられたであろうし、美空ひばりさんが登場した時あまりにも堂々と歌われるので、なんだあれはと思われたのもうなずける。少女には可愛らしさを求めていたのである。でも少女は大人になるわけで、何の違和感もなく大人になられた美空ひばりさん。歌に関しては、世の中の可愛らしさのみそぎを自ら済ませての登場である。CDには美空ひばりさんは出てこないのであしからず。

 

  • 解説をながめつつワクワクしながら聴いた。映像で流される「思いでのメロディ」とか「懐かしのメロディ」とは違う。どんな時代にもワクワクさは大切である。どんな時も前を向く時間はそれぞれれ、一人一人違う。戦時下でもワクワクしているものを持っていた人はいた。それが音楽だったり、本だったり。瀬川昌久さんの「昭和モダン流行歌」は、次はどんな歌なのと今の時間をワクワクさせてくれた。そして勝手に飛ばさせてもらった。

 

  • 瀬川昌久さんには15年ほど前にカルチャーでお話を聞いたことがあった。その資料を探したらでてきた。フランク永井さんの『君恋し』は、二村定一さんが唄ってヒットしたもので、アレンジを変えてフランク永井さんの歌のようになったのを初めて知った。この後で下北沢の小劇場で『君恋し~ハナの咲かなかった男~』の舞台を観劇して二村定一さんがよりインプットされる。二村定一さんの『青空』『アラビアの唄』は日本版ジャズソング第一号とのこと。CDでは川畑文子さんが歌われる。それは、瀬川昌久さんの個人的こだわりがあるからである。

 

  • ミュージカル『青空~川畑文子物語~』(監修・瀬川昌久)も博品館劇場で上演されたが5日間で時間がとれず、いまでも残念に想っている。舞台『君恋し』、『青空』はもう一度上演してほしいと今でも願っている。映画『舗道の囁き』も瀬川さんから聞いていたのであるがその映画を観た時は忘れていた。瀬川昌久さんのCDを聴かれて、文字的歌のながれが、メロディーにのった歌としてよみがえったかたが多くおられるのではなかろうか。そのひとりがここにもいるのである。

 

 

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