浅草散策から「いわさきちひろさん」(3)

  • 東京都練馬にある『ちひろ美術館』に行ったとき、あの可愛らしい絵の中の子供たちと同じように生きている子供たちが幸せであるようにという想いが伝わってきた。同時にいわさきちひろさんには過去に非常につらいことがあったのだなということを少し知ることができた。戦争のあった時代を生きてこられたわけであるから誰しも悲しいこと、後悔すること、怒りを感じることなど様々な感情を呼び起こす経験はされている。

 

  • ちひろさんが最初結婚されたかたは、自分で命を絶っていた。ちひろさんは自分の意志をはっきりさせず周りに押し切られて結婚し、そういう結果を招いたことに深い自戒の念があった。そして絵を捨てたことにも。前進座公演『ちひろ ー私、絵と結婚するのー』は、戦後ちひろさんがそこから這い出し、絵で自立する3年半をえがいている。ただ、それと同時も結婚を申し込まれるというところで終わっている。結婚しても絵との結婚を妨げない人からの申し込みであったということになる。

 

  • ちひろさんがどうして絵で自立できたかという過程は知らなかったので芝居を観つつそうであったのかと明らかになる部分がほとんであった。松本から泊るところも決めないで出版社の面接に東京にでてくる。これが自立への第一歩であった。1946年(昭和21年・27歳)のことである。食料難である。泊めてもらえたのが、池袋モンパルナス(芸術家が修練の場所として住んでいた地域)の丸山俊子さんのアトリエであった。丸山俊子さんは丸木俊さんがモデルであるということがわかる。ちひろさんは、出版社にも就職でき、丸山俊子さんの早朝デッサンの会にも参加し、色々な人に絵の批評を受ける。

 

  • ちひろさんは、子供時代お母さんは教師をしており、恵まれた環境で「コドモノクニ」の子供雑誌などにも触れて豊かな感性をはぐくんでいる。絵の仲間たちから『コドモノクニ』とは高価なものを手にしていたんだね。などともいわれる。皆、自分の絵の線を探している。印象的なのは、丸山俊子さんがちひろさんに、人の絵にふらふらしないで自分の絵をめざせという。丸木俊さんは、『原爆の図』を描かれたかたで、いわさきちひろさんの絵とはかけ離れているようにおもえるが、その精神性は一緒であると理解されていたようである。ちひろさんも、自分の意見を主張しないで悲劇が生まれたとの想いから恐らく自分の絵に対する意志は曲げなかったであろう。

 

  • そんな時、紙芝居を制作したいという仕事が舞い込む。その編集者・稲村泰子さんは盛岡出身で宮沢賢治の信奉者でちひろさんも宮沢賢治は大好きであった。意気投合する。紙芝居はアンデルセンの童話で、原作を脚色している『お母さんの話し』である。そのあたりのふたりのやりとりも面白い。ちひろさんに結婚を申し込む人・橋本善明さんは青年活動家で宮沢賢治を知らくて、ちひろさんと稲村さんにずっこけられる。今回この舞台の脚本は、前進座の俳優・朱海青さんでこの作品が脚本家デビューである。よく出来上がっていると思う。下宿のおばさんが庶民の感覚を代弁したりしている。

 

  • ちひろさんは、満州で身体を壊し他の人より早く日本に帰ってくる。そのことも残された人々のその後を考えると苦しいものがった。芝居には出てこないが、お母さんが国のためにした仕事など、その後に見えてきたことに対する贖罪のような感情がたえずあったと思われる。それでも自立し絵に対する気持ちを大切にしようという意思が<私、絵と結婚するの>に現れている。東京での女学生時代、岡田三郎助さんに師事し女性の公募展で入選もしていてその才能は芽を出していたのである。ちひろさんの子供たちには、その芽をつまないでの祈りのようなものさえ感じる。

 

  • 前進座の歌舞伎や時代劇ではない現代物である。役者さんも、現代物でのほうがその演技力を発揮できるかたもおられたのではないだろうか。いわさきちひろ生誕100年に舞台化され新たな前進座の前進となったように思える。ちひろさんの絵の色使いとか線とかも改めて味わってみたくなった。

原案・松本猛/台本・朱海青/演出・鵜山仁/出演・有田佳代、新村宗二郎、松川悠子、益城宏、中嶋宏太郎、浜名実貴、黒河内雅子、西川かずこ、渡会元之、嵐芳三郎、上滝啓太郎、嵐市太郎、松涛喜八郎

 

  • 宮沢賢治さんが自作の戯曲の上演をしたのが、勤務していた農学校が岩手県立花巻農学校となり新校舎落成・県立校昇格の記念式典である。上演したのは『植物医師』『飢餓陣営』である。(1923年・大正12年)『飢餓陣営』は浅草オペラの影響があり、宮沢賢治さんは浅草オペラを見たとされている。まだいつ賢治さんが浅草オペラに接したのか、実証される文献にはお目にかかっていない。あのガチガチに固まってみえる宮沢賢治さんが浅草でオペラを観たと想像するのは楽しいし、それを岩手で実行しようとしていたなら先進をいっている。

 

  • 春と阿修羅』を自費出版したのが1924年(大正13年)で、それを激賞したのが、辻潤さんの『惰眠洞妄語』(読売新聞)と佐藤惣之助さんの『十三年度の詩集』(日本詩人)である。このお二人、浅草の「ペラゴロ」で「ゴロ」はゴロツキではなくフランス語のジゴロ(地回り)からきていて辻潤さんが命名したとの話もある。その「ペラゴロ」が宮沢賢治さんの『春と阿修羅』を一番に押したのであるから浮き浮きしてしまう。宮沢賢治さんの心の中は弾力豊かに跳ねていたとおもえる。

 

  • ちひろ ー私、絵と結婚するのー』のチラシの絵が「窓ガラスに絵をかく少女」で『あめのひのおるすばん』に入っているらしい。早く帰って来ないかなとひとり窓から外を見ているうちに窓ガラスの水滴に気が付きそれに人差し指で絵を画いているのだろう。パンフレットの中にも「指遊びをする女の子」という右手の人差し指を動かして遊んでいるらしい絵。その人差し指が強調されていて少し長い。「絵をかく女の子」は親指と人差し指でクレヨンを持ち絵を画いている。高畑勲監督(合掌)の『火垂るの墓』の節子ちゃんが親指と人差し指にドロップをはさみ口に入れるのを思い出す。

 

  • 映画『アンデルセン物語』(1952年)はダニ―・ケイがアンデルセンを演じるミュージカル映画である。デンマークのオーデンスに住むアンデルセンは靴屋の仕事もせずに、お話を作っては子供たちに聞かせるのである。弟子のピーターは気が気ではない。子供たちが話に夢中になり学校へ行かないのである。町の偉い人達はオーデンスの町から追放すると決める。ピーターは追放をアンデルセンに気づかせないようににコペンハーゲンに行こうと誘いだしコペンハーゲンに着く。ところが、国王の像の台座に登ってしまいけしからんと牢屋にいれられてしまう。アンデルセンは窓から外をのぞくと女の子が寂しそうにしている。友達がほしいのかいといって、左手にハンカチをかぶせ、親指に目鼻を画いて小さくたってくじけないと楽しく歌って聞かせる。そして右手の親指と仲良くなる。女の子は自分の親指をみつめる。女の子は寂しいときは親指姫と遊ぶのかな。

 

  • この映画は、アンデルセンの失恋も描いてもいる。バレリーナに恋をして、『人魚姫』の話しを捧げる。そのお話はバレエの台本につかわれ、恋するバレリーナによって人形姫は踊られるのである。ところが、アンデルセンの勘違いで恋は破れてしまう。病気で頭の毛がない男の子に『みにくいアヒルの子』を聞かせその子は納得して元気になる。その子のお父さんが出版業をしていてアンデルセンのお話しを新聞に乗せる。作家アンデルセンの誕生である。アンデルセンはピーターと故郷へもどるのであった。

 

  • 『人魚姫』のバレエ舞台の振り付けが時代的に考えると新しく誰の振り付けかと思ったらローラン・プティであった。なるほど。アンデルセンの恋するバレリーナはパリ・バレエ団のジジ・ジャンメイルが演じている。ちひろさんのお陰でほったらかしの映画『アンデルセン物語』のDVDの封も切ることができた。ちひろさんのアンデルセンのお話の挿絵はどんな絵であろうか。

 

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