手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(4)

北総線矢切駅から「野菊の墓文学碑」までは10分くらいである。矢切駅をはさんでの反対側には「式場病院」があるはずである。 『炎の人 式場隆三郎 -医学と芸術のはざまで-』 さて『野菊の墓』散策の方向に進むが、途中に「矢切神社」があり向かい側に「矢喰村庚申塚」がある。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3467-2-1024x630.jpg
画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3468-1024x576.jpg

矢喰村庚申塚由来>の碑がある。温暖で平坦な下総原野が川と海に落ち込むこの矢切台地にひとが住んだのは約五千年前で、平和な生活を営んでいたが、国府が国府台にに置かれ千三百年ほど前から武士たちの政争の場となり、北条氏と里見氏の合戦では、矢切が主戦場となった。この戦さで村人は塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ、親から子、子から孫に言い伝えられ江戸時代中期に二度と戦乱のないよう安らぎと健康を願い、庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻みお祈りをしてきた。先人たちの苦難と生きる力強さを知り四百年前の遺蹟と心を次の世代に伝えるため平和としあわせを祈り、この塚をつくったとある。(昭和61年10月吉日)

石像群の中央に位置する庚申塔は、青面金剛を主尊としており、中央上部には、阿弥陀三尊種子と日月、青面金剛像の足元には三猿が刻まれているとある。なるほど納得である。(造立年は1668年) そして、政夫と民子が並んで彫られている「やすらぎの像」もある。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3474-576x1024.jpg
画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3469-576x1024.jpg

庚申塚を左手にして5分ほど進んで行くと左手に西蓮寺がある。向かいの右手に階段がありそこを登って行くと野菊苑と称する小さな公園がある。階段のそばに<永禄古戦場跡>と記された木柱がある。国府台合戦は二回あり、その二回目の始まった場所ということである。今回の散策で、矢切りは古戦場の歴史の場であったことが印象づけられた。上の苑からは矢切りの畑地が見下ろせる。橋があり歩道橋であり、それを渡ると西蓮寺の境内に出ることになりそこに「野菊の墓文学碑」がある。西蓮寺からはここには出られないようになっているので野菊苑からである。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3475-1024x576.jpg
画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3476-1024x576.jpg
画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3478-1024x576.jpg

野菊の墓文学碑」は土屋文明さんの筆により『野菊の墓』の冒頭部分と、茄子を採りに行ったとき見た風景部分と、綿を採りに行った時に別々に行き政夫が民子を待つ場面が一つつなぎで書かれている。

「野菊について」という説明板もあり、「野菊」という名の花は無く、山野に咲く数種の菊の総称とある。関東近辺で一般に「野菊」と呼ばれる花は、カントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクなどで白か淡青紫色で、民子が好きだった「野菊」とはどのような花だったのでしょうかと書かれていた。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3479-1024x576.jpg

白という感じがします。詳しく図鑑的にこれをというのではなく、野に咲いていて目に留まったキクであれば皆好きだったのではないでしょうか。つんでいれば青系も入っていたかもしれません。映画では白を使うと思います。

ここから「野菊のこみち」を通って江戸川にぶつかる予定であったが、一本道がちがっていたようである。よくわからなかったので江戸川の土手を目指す。「かいかば通り」という解説碑があった。このあたりの細流はしじみ貝のとれる貝かい場であったことから「かいかば通り」といわれていたとあり五千年前の畑の作物、貝類などを採って平安に暮らしていた人々にまで想像が広がる。憎むべきは戦さである。坂川の矢切橋を渡る。「野菊のような人」の碑がある。政夫と民子が野菊を手にしている。そして江戸川の土手をのぼる。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3482-1024x576.jpg

途中で道を教えてくれた人の言葉に従って、土手下のゴルフ場の間をつききって松戸側の「矢切の渡し」へ到着。舟がこちらに向かってきていて待つ時間も短く乗ることができた。こちらに渡った人がすぐ並んで戻られる人がほとんどである。舟は往復で川下と川上と方向を変え少し遠まわりをして渡ってくれるのである。エンジンつきなので滑らかに川面を進んでくれる。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3485-576x1024.jpg

船頭さんの話しだと鮎が上がってくるのだそうで、網が仕掛けられていた。稚鮎を獲っていて出荷しているようだ。小さな亀が甲羅干しをしている。一作目の『男はつらいよ』で寅さんは、千葉(松戸)側から東京(葛飾)に渡っているという。「川甚」は、その頃はもっと川べりにあったそうで、映画を観なおしてみた。なるほどであった。さくらと博の結婚式で、印刷所の社長が手形のことで遅れて「川甚」の玄関に飛び込んでくる。その時、江戸川が見えていた。

舟は葛飾の矢切の渡しに到着。徒歩、電車、舟で江戸川を渡ることができた。『寅さん記念館』がリニューアルオープンしたようであるが、行く元気がなく、「川甚」「柴又帝釈天」のそばを通り、柴又の商店街に向かう。連休中だったので人々でにぎわっていた。

『男はつらいよ』にも、マドンナ役で出演されていた京マチ子さんが亡くなられた。角川シネマ有楽町での「京マチ子映画祭」の時、映画の終わりに「京マチ子。ありがとう!」と声をかけられた男性観客がおられた。 ドリス・デイさんも亡くなられた。 まだ観ていないお二人の映画などを、これからも楽しませていただきます。(合掌)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です